Anthony Christian Ocampo著「Brown and Gay in LA: The Lives of Immigrant Sons」

Brown and Gay in LA

Anthony Christian Ocampo著「Brown and Gay in LA: The Lives of Immigrant Sons

ロサンゼルス在住のフィリピンや中南米(主にメキシコ)からの移民二世のゲイ男性たちを調査した社会学の本。著者もフィリピン系移民の子どもでゲイ男性の社会学者。

フィリピンと中南米という組み合わせだけれど、どちらもスペインによる植民地支配を受けカトリック教会の影響を受けたという共通点があり、またフィリピン系とメキシコ系はロサンゼルスで最も大きい移民コミュニティでもある。本書はそうした移民家庭に育った60人の同性愛者を自認するシス男性に取材し、ブラウンであること、ゲイ男性であること、移民の子どもであることがかれらの人生にどう影響しているのか調査したもの。

アメリカに移民してきた親の世代は、祖国を離れ、親しい人たちから遠く離れた外国に移住することで、立場の弱い移民として低賃金で重労働をさせられ苦労してでも、自分の子どもにより多くの機会を与える夢を持っている人たち。かれらの子どもである移民二世は、機会の国アメリカで成功していい職に付き、(異性愛)家庭を築くことを強く期待されて育つ。しかしゲイであることを自覚した子どもたちは、自分が親が夢見た理想的なアメリカの成功ストーリーを生きることができないことに気づき、すべてを犠牲にして自分に機会を与えてくれた親への義務感と、自分に正直に生きたいという気持ちの板挟みになる。おまけに親世代の多くは同性愛に否定的な宗教的価値観の持ち主で、ゲイであることを知られたら絶縁されるおそれもある。

そういう状況に置かれた移民二世のゲイ男性たちは、理想的な家庭を築くという親の期待に応えられないことを補填するために、そして親元から離れて大学のキャンパスで自分のセクシュアリティやアイデンティティを模索するチャンスを求めて、学業に集中することが多い。しかしモデル・マイノリティの扱いを受けるフィリピン系と、アメリカ生まれで英語が母語なのにどうせ英語がしゃべれないのだろうとか。勉強に熱心でない、どうせ将来はギャングだろうと決めつけられる中南米系では学校の扱いが大きく異なる。とくに白人やアジア人の多い学校では、中南米系だというだけで教師から落第生としての扱いを受け、実際に好成績を残しているのに進学コースのクラスに入れてもらえない生徒も多い。

また多くの移民二世たちは、自分はゲイだが「あのゲイ」ではない、という形で親やコミュニティからの理解を得ようとすることも多い。「あのゲイ」とは、フィリピンで盛んなゲイ男性やトランス女性向けのミスコンテストに出てくるような、あるいはアメリカのテレビでかつて普通だった、女装していたり女性的なゲイ男性。ある人は親とテレビで「ウィル&グレイス」を観た経験から、自分はジャックではなくウィルのようなゲイにならなければいけないと理解し、ウィルのようなスマートなプロフェッショナルを目指した。こうした対策はかれらが家族やコミュニティの理解を得るためには必要なものだが、女性的なゲイやトランス女性を貶めてそれらとの比較で自分を良く見せようとする行為でもあり、ゲイコミュニティ内に深刻な階層化をもたらしている。

著者が取材したゲイ男性たちの多くはゲイクラブのヒップホップ・ナイトやラティーノ・ナイト、そして中南米系ゲイ男性を対象にかつて毎週行われていたゲリラ的なダンスなど(フィリピン系の場合はK-POPなどアジア系ゲイ男性向けのダンスイベントも)に参加して仲間を見つけている。そういう現場に行くことで、かれらはテレビではあまり見られない「男らしい」ゲイ男性の存在を知り、自分もそうあろうと決意する。若いころともだちと一緒にポートランドで唯一のレズビアンバーに行き、白人のDJにチップを渡してヒップホップを流すようお願いしたらジャネット・ジャクソンが流れてきた(あいつらはヒップホップ=黒人音楽全般と思っている)経験があるわたしにとってはラティーノやアジア系を対象としたイベントがたくさんあるロサンゼルスのゲイ男性がうらやましいところだけど、それだけに2016年にオーランドのゲイ・ナイトクラブのラティーノ・ナイトが襲撃され49人が射殺された事件は多くの人たちにとって衝撃だった。

自分の義務感にまで内面化された親からの期待と自分の希望の板挟みになった移民二世のゲイ男性たちが、高学歴プロフェッショナルになったり、テレビにおけるゲイ男性のステレオタイプに逆行する「男らしい」ゲイになることでそれに対処しようとすることは、個人的には必要なことだとしても社会的には解決にはならず、そうした戦略を取ることができないクィアたちを貶めるだけでなく、自分自身の可能性も狭めてしまう。かれらの一部には、アクティビズムやアーティストとしての活動を通してゲイ男性の多様なあり方や可能性を訴える方向に進んでいる人もいる、という話は救い。