Sami Schalk著「Black Disability Politics」

Black Disability Politics

Sami Schalk著「Black Disability Politics

障害者運動の歴史が白人中心的に記録されてきたことに対し、1970年代から現在までの黒人運動の歴史のなかから人種差別との闘争が障害や慢性疾患をめぐる政治状況と根深く関連してきたことや、白人障害者の運動とは異なる形で障害や慢性疾患のある黒人たちを中心として黒人の活動家たちがよりインターセクショナルな政治を指向してきたことを論じる本。著者の意向により無償で全文をダウンロードすることができる。2022年に出版されていらい「はやく読んで感想を聞かせろ」と言われてつつ後回しにしてきたけど、同じく後回しにしてきたけどつい最近読んだAmanda Lock Swarr著「Envisioning African Intersex: Challenging Colonial and Racist Legacies in South African Medicine」と関連してきそうなので続けて読んだ。

本書は序章で「正常な身体・精神」を規定する政治が黒人差別と障害者差別の双方の根底にあり、それが双方の差別のただの共通点や類似点ではなくLamar Hardwick著「How Ableism Fuels Racism: Dismantling the Hierarchy of Bodies in the Church」などでも論じられているように分かちがたく結びついていることを指摘、医学的・法的な基準によって障害者とされた人だけでなくすべての黒人にとって、障害者差別は身体や精神の権力による序列化を経由して逼迫した問題だという前提を説明。続いて1970年代以降のブラックパンサー党や全国黒人女性健康プロジェクトなどの運動がどのように障害や慢性疾患と人種差別との結びつきを扱ってきたかを紹介し、現在のブラック・ライヴズ・マター運動やディスアビリティ・ジャスティス運動において黒人やその他の非白人の障害者たちがその伝統を受け継ぎ拡張していることを示す。

1970年代以前のアメリカにおいて障害者運動の中心を担ったのは、戦争で負傷し障害者となった退役軍人と障害のある子どものいる親たち、とくに障害をめぐる運動を起こす余裕のある白人中流層の人たちであり、かれらは政府によるサービスの欠如を批判することはあっても、政府による直接的な暴力の被害を受ける側という自己認識はなかった。しかし黒人たちは存在しているだけで異常な人間として扱われ、公民権運動やブラック・ナショナリズムの運動を起こしても精神異常者だとして扱われ不当に勾留されたり警察の物理的な暴力によって傷つけられ、しかもその体験を訴えても信憑性のないたわごとだと切り捨てられた。かれらは強制的に強い精神薬を飲まさせられ、当時すでに一般的な医療措置としては行われなくなりつつあったロボトミーなどの精神外科手術を受けさせられた。直接的な暴力や不当な医療行為の結果でなくとも、差別や貧困の結果、危険な労働環境や住環境に晒され、健康的に生きるために必要な食生活や娯楽を奪われながら、病気や怪我になったら本人の選択の結果だとして自己責任を問われ、医療現場でも差別を受けるなど、黒人差別は心身の健康を脅かすだけでなく、障害者差別と結びついてさらに人々を追い詰めた。

黒人運動に限らず、環境運動やその他のさまざまな運動において、障害や慢性疾患の存在を構造的差別の結果であるという正しい認識から、障害や慢性疾患を持つ人の存在を抹消することが運動の目的にすり替わってしまうことはよくある。ブラックパンサー党の活動のなかでも、構造的暴力の結果として黒人たちがこんなに苦しめられていると強調するあまり、かれらを人間性を奪われた被害者としてのみ描写してしまうことがあった。障害や慢性疾患の存在を問題視するのではなく構造的暴力そのものにきちんと注目し、現に障害や慢性疾患とともに生きている人たちのレジリエンスを尊重しつつ、必要なサービスや資産の再分配を進める必要がある。

白人中心の障害者運動や障害学のなかでは、1980年代以降「障害の社会モデル」が影響力を得た。障害を個人の身体的・精神的な問題と規定する「医学モデル」に対し、社会モデルにおいては障害は社会的な構造が多様な身体や精神に対応していないことによって生み出されると考える。一番わかり易くよく使われる例だと、車椅子では入れない建物があるせいで車椅子を使う人は障害を負わされているのであって、すべての施設が車椅子に対応していれば(あるいは極端な議論だと、すべての施設が車椅子の使用を前提として設計されており、車椅子を使わないと不便な状態であれば)、車椅子を使う必要があること自体は障害ではない。こうした議論に対しては、フェミニズム障害論の立場などから社会と身体の関係はそれほど単純ではないことなどが指摘されたが、本書は身体や精神の序列化が施設の設計などの表層的なレベルで生じているものではなく、人種差別とファットフォビア(Sabrina Strings著「Fearing the Black Body: The Racial Origins of Fat Phobia」参照)やトランスフォビア(Da’Shaun Harrison著「Belly of the Beast: The Politics of Anti-Fatness as Anti-Blackness」参照)などを結びつける植民地主義と資本主義の根本的な土台であることを示す。障害をノーマライズしてポジティヴなアイデンティティとして受け入れる、白人の障害者運動にありがちな傾向は、障害や慢性疾患のある黒人たちには受け入れられない。

わたしは以前から、ディスアビリティ・ジャスティスの運動の大きな功績の一つは、障害者運動をいわゆる「障害者」だけでなく慢性疾患のある人たちに広げたことだと思っている。本書も指摘するように、糖尿病など(いまではHIV+もそこに含まれるか)の黒人やその他の非白人に多いとされる慢性疾患は、単純に「平等なアクセス」を保証するだけでは済まないし、施設の設計とは無関係に現実の苦しみとつながっているほか、本人の自己責任であるという論理によって「障害の社会モデル」を中心に据えた障害者運動からは敬遠されている。障害と慢性疾患の現実と向き合い、インターセクショナルな反差別の取り組みを行うとともにケアの社会化を進めようとするディスアビリティ・ジャスティスの運動や、同様にクィアやトランス、障害者、移民などを含めたインターセクショナリティな黒人運動を展開しているブラック・ライヴズ・マターの運動は、実のところこれまで障害者運動とは認識されて来なかった、ラディカルな黒人運動のなかの障害や慢性疾患への取り組みを受け継いでいる。

たぶんこれに書かれていること大体もう知ってるよなーと思って読むのを後回しにしてきたけど、ちゃんと読んだらいろいろ再確認できて良かった。Judith Heumann & Kristen Joiner著「Being Heumann: The Unrepentant Memoir of a Disability Rights Activist」でもブラックパンサー党が障害者活動家たちによるサンフランシスコ連邦健康教育福祉省ビル占拠に協力したことは少しだけ触れられているのだけれど、本書でその背景やブラックパンサー党によるその他の障害者解放への取り組みについてもより知ることができた。