Patricia Ononiwu Kaishian著「Forest Euphoria: The Abounding Queerness of Nature」

Forest Euphoria

Patricia Ononiwu Kaishian著「Forest Euphoria: The Abounding Queerness of Nature

1910年代のアルメニア人ジェノサイドを逃れてアメリカに移民した祖父母を持つクィアな菌類学者が自然界のクィアネスと菌類学の魅力とともに自身の半生を振り返る科学的自叙伝。

本書が取り上げる自然界のクィアネスの実例は、著者の専門である菌類や海の無脊髄動物(最近紹介したDrew Harvell著「The Ocean’s Menagerie: How Earth’s Strangest Creatures Reshape the Rules of Life」参照)、ウナギ(Patrik Svensson著「The Book of Eels: Our Enduring Fascination with the Most Mysterious Creature in the Natural World」およびEllen Ruppel Shell著「Slippery Beast: A True Crime Natural History, with Eels」参照)など哺乳類以外の生物が多く、そこで言うクィアネスは単に同性の個体同士による性的行為という意味ではない。個体の性別や性のあり方そのものが不定形だったり謎に包まれていたり、そもそも存在自体が動物なのか植物なのかはっきりしなかったことで分類を逃れてきたような、より広範なクィアなあり方だ。

性的行為の相手が異性か同性かということにとどまらない自然界のクィアネスを掘り起こし、それを著者自身の人生と並列して綴っていく内容はとてもおもしろいのだが、残念なのはインターセックスという言葉を安易に自然界に当てはめてしまっているところ。カタツムリなど生物のなかには両性(雌雄同体、ハーマフロダイト)のものがあるが、著者は「いまではハーマフロダイトではなくインターセックスという言葉を多くの人は望んでいる」として、以降それらの生物をインターセックスと呼んでいる。しかしハーマフロダイトとは雄と雌双方の生殖器官を持ち卵と精子のどちらも作ることができる、あるいは時間や環境によってどちらを作ることができるか変化する生物のことを指しており、双方の生殖器官を持たないためどちらか一方しか作れない、あるいはどちらも作ることができない人間のインターセックスとはまったく別。むしろインターセックスという言葉は(そして医療用語である性分化疾患という言葉は)ハーマフロダイトとは別物として区別するために使われており、雌雄同体やハーマフロダイトを意味する新しい言葉ではない。インターセックスという言葉を人間以外の生物に適用することについて著者は、カタツムリやナメクジと人間に同じ言葉を使うことには反発があるかもしれないと認めたうえで、それは人間だけはほかの生物とは隔絶した特別な存在であるというイデオロギーではないかと言うのだけど、いやいやぜんぜん違うから。

ちなみに著者は、雌雄同体であるカタツムリの性行為について、それぞれ男性器と女性器(とされるもの)を持つ二匹のカタツムリがお互い平等に優しく愛し合っている的な描写をしてるけど、残念ながら進化心理学者たちは「双方に男性器と女性器があるなら、できるだけ自分は妊娠しないまま相手を妊娠させたほうが遺伝子拡散のコストを抑えられて進化的に有利だから、カタツムリの性行為は常にバトルなのだ」みたいなことを言っていたりする。まあどっちも人間の視点を持ち込みすぎだとは思うけど、そういう解釈もできてしまうということ。

ところで菌類学の学会に行くと多くの研究者たちがマジックマッシュルームやってるってまじか。それをもっと宣伝すれば菌類学に進む若者が増えるんじゃ。