Wendy Dean著「If I Betray These Words: Moral Injury in Medicine and Why It’s So Hard for Clinicians to Put Patients First」

If I Betray These Words

Wendy Dean著「If I Betray These Words: Moral Injury in Medicine and Why It’s So Hard for Clinicians to Put Patients First

利潤目的の経営が浸透したアメリカの医療制度のなかで、非人道的な規則や慣習に従わされてモラル・インジュリー(道徳的傷害)を負っている医者たちの経験と、地位や収入を失ってもそうした傾向に抗っている人たちについて書かれた本。著者自身も医者で、2018年に医療ニュースサイトに寄稿した医者のモラル・インジュリーについての記事は話題を呼んだ。

著者がモラル・インジュリーについて知ったのは、ラジオでイラク・アフガニスタン戦争から帰ってきた元兵士たちのPTSD治療についての番組を聞いたときだった。かれらに対してPTSDには定番のセラピーをほどこしても効果がないことが謎とされていたが、調査の結果それはかれらが抱えるトラウマの原因を見誤っていたことが原因だった。カウンセラーたちはかれらが戦場で過度な恐怖や緊張を経験したことからトラウマを抱えたという前提でセラピーを行ったが、実際にはかれらのトラウマの原因となっていたのは、Andrew Bacevich & Daniel A. Sjursen編「Paths of Dissent: Soldiers Speak Out Against America’s Misguided Wars」にも書かれているような、戦場において上からの命令や組織の空気に流されて自分本来の良心に反する行為に参加してしまったことによるモラル・インジュリーだった。

この話を聞いた著者は、自分や周囲の医者たちが抱えていた鬱憤や悩みも、戦場の兵士たちと同じようにモラル・インジュリーによるものだと気づいた。それは利潤を優先する組織のなかで取り替えのきく部品のように扱われ、とにかく効率を上げるために患者と向き合う時間を奪われ、患者のために最善な医療を行うことができない、病院の方針に従わないと仕事を失うし、現場から改善を提案してもまったく取り合ってもらえない、という、かつて自分が医者になろうと決意し、ヒポクラテスの誓いを立てたときに思っていた自分とはかけ離れた立場に置かれてしまっていることによる精神的なダメージだった(本書のタイトルはヒポクラテスの誓いの最後の「この誓いを破る時」の部分)。

医療ニュースサイトに寄稿した記事が話題となった著者はさらに同じ悩みをかかえた多くの医者やその他の医療関係者たちを取材し、かれらがどのようにして医者という職業に失望し、患者を裏切ったという自責の念によって追い詰められていったのか、これでもかと紹介される。その背景にはプライベート・エクイティが多数の医療機関を買収したことによる極度の経営効率化路線、医者から経営者への権力移譲、そして投資家への配当と経営陣への高額な報酬といった医療業界の変化が地方の小さな医院や非営利の病院まで飲み込んでいった経緯がある。

オバマ政権による健康保険改革で義務付けられた医療データの電子化は、長期的にはもちろん電子化は避けられないしうまく実施すれば利点も大きいのだけれど、医療業界大手やシステムを売り込むベンダーのロビー活動により歪んだ形で実現された。病院などが電子システムに移行するための助成金も提供されたが、複雑な制度を理解し書類を準備することができる大手業者が助成金を獲得できる一方、小さな医療機関はそれすらできずに大きな損を出したりその結果として大手に買収されたりした。またせっかく導入されたシステムは数千もあるベンダーによってバラバラに実装された結果、互換性がなく作ったベンダーがなくなったらメインテナンスできるのかすら怪しい。ほかにも大手業者に有利なさまざまな規則がロビー活動の結果法案に盛り込まれた。ひどすぎるよ…

いちおう、地位や収入を捨てて地域に密着した小規模なクリニックを開くなどして自分の良心を傷めない医療を実践している医者たちについても紹介されているけれど、かれらのような活動がスケールしない(少数だから無理なく行えるけれど、多くの医者が同じことをやろうとすると医者不足などの問題が起こり破綻する)のは著者も指摘している。てゆーか昔の医者に比べていまの若い医者は抱えている学生ローンの金額が半端ないからそもそも同じことをする経済的な余裕がない。

まあそれでも良心が傷つくのを我慢したら収入は良いわけだし、同じような状況でモラル・インジュリーを抱えているのに給料も安いソーシャルワーカーとかから見たら贅沢な悩みに見えるとは思う。でもそれだけ高給を得ている医者が不幸になるような医療制度がほかの医療従事者や患者にとって幸せなものであるはずもないので、医者の権威と資金力と特権をうまく使って広く人間を相手にする職種におけるモラル・インジュリーについて議論を広げてほしい。