Tiffany Brown & Katie Steele著「The Price She Pays: Confronting the Hidden Mental Health Crisis in Women’s Sports―from the Schoolyard to the Stadium」
小学校の生徒からプロ選手まで、女子スポーツ選手が経験するメンタルヘルスの悩みや問題についての本。著者はともに心理カウンセラーで、うちSteeleはナイキがスポンサーするオレゴン大学の名門陸上部の元選手。
はじめは楽しくてはじめたはずのスポーツなのに次第に指導者やファンから結果ばかりを求められるようになって重圧を感じたり、自己評価だけでなく大学の奨学金や給料が結果に結び付けられるなか成果が伸びずに悩んだり怪我で休養や引退を強いられる、選手を罵倒することで奮起させようとする古い指導者にメンタルを削られたりネットで中傷され傷つくなど、スポーツ選手が経験するメンタルヘルスの悩みには男女共通の部分も多い。しかしスポーツや指導法がもともと男性向けに発達してきたことから女子選手の自然な身体的成長や特徴に配慮がされていなかったり、不必要に体を露出したり競技中に生理がはじまったときに透けてしまう薄く明るい生地のユニフォームを着させられ、性的な目線で見られ体型をいろいろ揶揄されたり、男性指導者たちに性暴力をふるわれる、その他さまざまな面で女子選手にはメンタル的な負担がかかりやすい。体操選手のシモーン・バイルスやテニス選手の大坂なおみがメンタルヘルスのケアを優先して重要な試合を棄権したり欠場したことが騒がれたが、彼女たちに共感した女子スポーツ選手は多かったし、彼女たちのおかげでより自分を大切にできるような環境作りが進んだ。
アメリカ体操協会の男性医師が地位を悪用してバイルス選手を含めた多数の少女たちに性虐待を行い、協会がそれを組織的に見て見ぬふりした事件があったが、選手の出場機会や奨学金をコントロールする権力を持つチーム指導者による性暴力やセクハラ・パワハラはとても多く、どこまでが一般に許容できる、あるいは多少行き過ぎてしまったかもしれないけど善意の指導でどこからが犯罪なのかという線引きは、それを経験している被害者にも即座に判断が難しい。生理が止まるほど食事制限をした選手を褒めほかの選手にもそれを手本にするよう強要しながら、その結果摂食障害になったり健康被害が出たらあっさりチームから切り捨てるという証言も本書ではいくつも紹介されている。大学スポーツなどある程度予算のあるチームであれば競技中に怪我をした選手にはすぐに医療が提供されるのに、スポーツ選手の対応ができるメンタルヘルスの専門家を雇っているところは少なく、うつや摂食障害、希死念慮に悩む選手たちに対してなんの専門性も持たない指導者が精神論で言いくるめようとするのが普通。
スポーツ参加への障壁から第二次性徴による身体の変化や男性指導者たちの無理解、ソーシャルメディアを通した自己評価や自尊心へのダメージ、摂食障害や希死念慮、非自殺的な自傷行為、ファンや指導者たちからの性的な目線、セクハラ・パワハラや性暴力、スポーツ引退後の無気力感など、女子スポーツ選手の多くが経験するさまざまなメンタルヘルスの悩みについて多数の選手や元選手とのインタビューを通して解説し、どのようにして家族や指導者たちが選手を支えるか論じる。
また、2020年以来「女子スポーツを守る」というスローガンのもと、トランスジェンダーの生徒や選手のスポーツ参加を拒もうとする法案が各地で提案・制定されているけれど、本書はそうした主張をしている人たちが女子スポーツと男子スポーツのあいだの待遇や機会の格差、賞金や給料の格差、女子選手に対するセクハラや性暴力、メディアにおける差別的で性搾取的な扱い、そしてそれらによって生じている女子選手たちのメンタルヘルスの危機について声を上げることはほとんどないと指摘する。女子スポーツへの参加資格を生物学的な要因によって判断するよう義務付ける法律は、トランスジェンダーの選手だけでなく全ての女子選手たちのプライバシーを侵害し競技参加から遠ざけ、すでにそうなっているように多数のシスジェンダー女性の選手たちが「本当は男性だ」という悪意ある噂を流され誹謗中傷や殺害予告の被害を受けている。そもそもトランスジェンダーの生徒にとっては家族の反対やコミュニティでの孤立、学校でのいじめなどスポーツ参加どころでない人のほうが圧倒的多数で、女子スポーツの擁護を口実にそうした子どもたちを攻撃することは不当である、と著者は本書の序盤で明記している。