Talia Bhatt著「Trans/Rad/Fem: Essays on Transfeminism」

Trans/Rad/Fem

Talia Bhatt著「Trans/Rad/Fem: Essays on Transfeminism

インド出身でイギリス在住のトランス女性・レズビアンの著者による、いま最も熱いフェミニズム理論の本。著者は以前からSubstackで注目を集めており、自費出版だけど発売と同時にアマゾンでカテゴリー1位を獲得してた。基本的にこれまで発表したエッセイを集めたもので、かねてからの読者にとっては見覚えがあるものだけれど、うまく構成されていて一冊の本として読む価値あり。

著者は生まれてきた階級や言語アクセスに恵まれた結果、欧米メディアを通して早いうちからトランスの存在を知り、自分がそれだと気づいたが、実際に伝統や家族のしがらみから離れ表立って女性として生きることができるようになったのは20代後半。それまでのクロゼット生活の彼女を支えてくれたのは、家父長制とヘテロセクシュアリティを真っ向から否定するラディカル・フェミニズムだった。欧米の若いフェミニストたちには反トランス的な過去の遺物と思われがちなラディカル・フェミニズムだが、著者はラディカル・フェミニズムによるヘテロセクシュアリティへの分析を推し進め、性別二元制と呼ばれるものが実際には人々を男女二つのカテゴリに分類する制度ではなく、男性だけを人間として扱い、性や再生産の面で男性の役に立つ存在を女性、そして役に立たないものをそれ以外に振り分ける男性至上主義のイデオロギーであることを指摘する。

この男性至上主義のイデオロギーのもとでは、第二の性として一応の居場所を得ているように見える女性は、男性とのセックスを拒絶したり、年齢を重ねるなどして性と再生産の役に立たないと判断されれば、いつでもその地位を追われ、トランス女性と同じ「それ以外」の存在として葬りさられる。その危険を意識するからこそ、「女性」という地位が生物学的に保証されている不変のものであるという概念がトランス女性の存在によって脅かされることは、女性に対する脅威とみなされる。このように著者の主張は一貫してラディカル・フェミニズムであり、トランスフェミニズムであり、ラディカルなトランスフェミニズムでもある。

さらに欧米の人類学者やフェミニストやクィア理論家たちによって「第三の性」として持て囃されてきたヒジュラの伝統がある国の出身であり、しかし階級的な理由でヒジュラではなく伝統社会を脱出してトランス女性として生きる機会に恵まれた当事者として、インドのヒジュラや南米のトラヴェスティなどに対する欧米の植民地主義的な見下しとともに、脱植民地主義的なイデオロギーに基づいた無責任な「植民地化以前の先住民文化」の称賛を著者は批判する。それらの欧米による解釈は、貶すのであれ褒めるのであれ、実際にヒジュラとして生きている人たちの現実を無視し、かれらの声を押しつぶしている。それは単に欧米に間違ったことが伝えられているというだけの問題ではなく、ヒンドゥー教ナショナリズムに傾倒しつつも欧米の視線にある程度敏感なインド政府によって採用され、ヒジュラに対する暴力的な政策にも影響している。

ほかにも「どうしてトランスジェンダーは良いのにトランス人種はダメなのか」という、一般的にはヘイターがインテリぶってヘイトを正当化するためだけにする問いに対する深い洞察などがあるほか、著者はレズビアンロマンス小説の作家でもあり、レズビアン文学への批評もおもしろい。日本のエス文学や百合・GLも言及されているし、レスリー・ファインバーグの「Stone Butch Blues」のレズビアンコミュニティやトランスコミュニティにおける受容のおかしさについての指摘は言われてみればそりゃその通りなんだけどはっとさせられた。