Shuxuan Zhou著「From Forest Farm to Sawmill: Stories of Labor, Gender, and the Chinese State」
体制が社会主義から国家資本主義に移行する20世紀末・21世紀初頭の中国福建省を舞台に、木材の伐採・加工で生計を立てていた数世代の労働者やその家族たちがどのような経験をしたのか、資本主義への移行に伴う合理化や失業にどう抵抗してきたのか、ジェンダーと労働の視点から分析する本。
わたしは本書の著者とはシアトルのチャイナタウンのマッサージ店で働くアジア系移住労働者女性たちの支援活動を通した知り合い。知り合いが本を出したというのが本書を読んだきっかけだけれど、想像を大きく超えてくる内容でめっちゃ衝撃を受けた。
著者は本書が対象とする福建省の農村の出身で、父や祖母などたくさんの家族や親戚が林業や木材加工で働いていた。しかし2000年頃にかれらが働いていた企業が民営化され多くの人が失業、仕事を求めて都市に移住する家族と離れ、著者は大学に通うため首都北京へ、そしてワシントン大学のあるシアトルに引っ越す。そしてジェンダーと労働の研究者となった著者は故郷福建省に戻り、家族・親族の元同僚たちに取材し、社会主義から資本主義への移行による人々の生活の変化、そして日本との戦争や共産革命、大躍進政策や文化大革命など激動の時代を経験してきたかれらの人生について調査する。
共産革命後の中国では、建前上は男女差別は撤廃され、社会主義の建設のために男性も女性も対等に貢献すべきだとされたけれども、職やその他の権益を個人ではなく家族単位で分配するなどの政策と儒教的な価値観により、実質的に女性は余剰労働力とされた。すなわち木材工場などで労働力が必要なときには「女性は家にという考え方は古い」などと煽られ賃金労働に駆り出される一方、彼女たちの地位は男性労働者の地位には及ばず保障のないものとされ、いらなくなると「社会主義の建設には家庭を守ることも労働として評価されるべきだ」として職を追われる。その結果、民営化により職を失った労働者のなかでも、男性に比べて女性はそもそもの地位が低かったり勤続年数が短いなどを理由として十分な補償を与えられなかった。社会主義体制のなか、余剰労働力としていつでも切り捨てられる立場だった女性労働者たちは、資本主義体制への移行のなかでも「中国が強大な国になるための犠牲」として切り捨てられる立場だった。
著者が労働者たちに取材しようとすると、多くの女性たちは「自分は文字も分からないし、自分の話なんて聴く価値がない」と卑下した。とくに戦争中や文化大革命時に子ども時代を過ごした人たちは教育を受けていないことに引け目を感じている人が多く、あまり多くを語ろうとしない。自分たちと同じ村の出身でありながらアメリカで研究者になった著者に対して自分が言えることなんてない、という気持ちもあったかもしれない。しかし著者は家族の話などを通して関係を築き、彼女たちを含む労働者たちの話を聞き取っていく。
著者は自分が幼いころ、木材工場で働いていた祖母がいつも周囲に自身が置かれた状況についての恨みつらみを語っていたことを覚えている。あらためて彼女にインタビューしても、恨みつらみを語るばかりで、別のことを質問してもろくに答えてもらえない。しかし話を聞いていくうちに、彼女にとって恨みつらみは仕事を続け家族を守っていくための手段だったことに気づく。彼女は早くして夫を亡くしており、また教育も受けていないし共産党の党員でもなかったが、恵まれない境遇についての恨みつらみを述べることで同情を買い、それによってほかの女性が解雇されたときも仕事を続けることができていた。彼女だけでなく、年老いた女性たちによる恨みつらみは民営化によって仕事を失った多数の労働者たちが退職金を求めて起こした闘争でも重要な役割を果たす。教養のある男性たちは法律や論理を用いて労働者たちの切り捨てを非難したが、女性たちは恨みつらみの感情によって世論を動かした。政府を訴えた裁判では敗訴し賠償金を得ることはできなかったが、女性たちの恨みつらみによって追い込まれた政府は解決金の支払いを決める。
本書はほかにも、地方と都市、女性と男性、若者と年長者などといった労働者のあいだの利害衝突が社会主義の時代から資本主義の時代にどう連続しているのか、どう変化したのかという分析とともに、労働者の連帯の可能性について論じる。著者が自分のルーツをより深く理解することを通して取材対象の労働者たちと関係を紡いでいく様子が、学術的な内容だけれどまるでドキュメンタリ映画を見ているような感覚になるすごい本。シアトルでは本書のなかから取材対象の人たちの映像を背景にかれらの証言を読むイベントが開かれ、その録画(中国語&英語字幕)がvimeoに残っているので興味があれば是非。