Kara Goucher著「The Longest Race: Inside the Secret World of Abuse, Doping, and Deception on Nike’s Elite Running Team」

The Longest Race

Kara Goucher著「The Longest Race: Inside the Secret World of Abuse, Doping, and Deception on Nike’s Elite Running Team

長距離走者として2008年・2012年のオリンピックにアメリカ代表として出場したほか、2007年に大阪で開催された世界陸上選手権大会では1万メートル走競技で銀メダルを獲得した女性選手の自叙伝。同じく長距離走者のパートナーとともにナイキのエリートチームであるオレゴン・プロジェクトに抜擢されたが、著名な男性コーチによる性暴力やセクハラ、そしてドーピングの疑いがあるサプリメントを押し付ける姿勢に我慢できなくなりチームから離脱、のちに組織的なドーピングが発覚したあと、捜査に協力し当のコーチによるマッサージを口実とした性暴力を告発するに至った経緯を詳しく綴る。

ポートランド郊外のビーバートンに本社を置くナイキ社は2001年、ニューヨーク・ボストンの両マラソンで80年代はじめに金メダルを獲得した往年の名選手アルベルト・サラサーをコーチとしてオレゴン・プロジェクトを発足させる。当時マラソンの世界はアフリカ諸国の選手に席巻されており、アメリカ人選手が長年優勝を逃していて、特に男子では80年代のサラサー以来アメリカ人の優勝者が一人も出ていなかった。アメリカ人のマラソン優勝者を生み出すべく創設されたオレゴン・プロジェクトは、著者を含む将来有望な選手を集め、かれらを酸素の濃度を調整した家に住ませるなど生活の全てを管理した。著者はこのとき、ナイキがほかの女性ではなく自分を選んだのは自分がアメリカ人であるだけでなく白人女性でありナイキの宣伝に向いているからだと気づいていたが、ナイキが提示した契約金と著名なコーチのもとで競技に専念できる機会を拒むことはできなかった。

オレゴン・プロジェクトの一員となった著者は、次第にコーチによる不必要に性的なコメントや女性の容姿や体型を論評する態度などに疑問を抱きつつ、かれは古いタイプの人間だから仕方がないと受け入れてしまった。またコーチは、練習後の彼女をマッサージするという口実で彼女の性器に指を入れることもあったが、かれは男性にもマッサージをしているし、触れてしまったのはたまたまだろう、と自分を誤魔化した。飛行機の中で泥酔して彼女に無理やりキスをしようとしたり、あからさまにセックスに誘ってきても、ナイキとの契約を切られることを恐れ著者は声を挙げなかった。

コーチが選手にドーピングをさせようとしているという疑惑も次第に深まる。はじめは聞いたことがないサプリメントの摂取を求められても「陸上連盟に公式に認められているサプリメントだから」と言われてなんの疑いも持たなかったけれど、陸上連盟にはそのようなサプリメントの公認制度は存在しない。また「禁止されてはいない」とされたさまざまな成績を上げるための薬を選手たちに処方しアドバイスをしていた医者やカウンセラーたちが、実際にはまったく関係のない専門の人たちだったり、どの程度のドーピングなら検出できないのか調べるかのようにこっそり選手にテストステロンのクリームを塗るなどの行為も行われた。またドーピング検査をすり抜けるために検出を妨害するような措置も行われていたことがのちに明らかになる。著者自身はドーピングをする意思は一切なかったし、事実一度もドーピングを指摘されることもなかったが、オレゴン・プロジェクトのほかの選手の何人かとコーチがドーピングで資格停止を受けたため、彼女の評判も傷つけられた。

著者がパートナーとの子どもを妊娠した際の扱いもひどい。著者は出産を希望しコーチに相談したが、コーチはそれを勝手に記者会見で発表してしまい、ナイキは選手の妊娠・出産を支援します、と宣伝に利用された。その際ナイキから、出産のために競技を離れているあいだも契約金を打ち切ることはないと言われたので、彼女はさまざまなインタビューに応じたり目に見えて妊娠した状態で写真撮影に応じるなどして、ナイキのイメージ向上および新市場開拓に協力したが、実際には契約金は打ち切られタダ働きをさせられた。しかし契約上その事実を公表することは禁じられ、最終的に長いあいだ続いた調停により契約金の一部返上を受け入れさせられた。

こうしたこともあり、著者はナイキ社内の別のコーチに頼み込んでかれのチームに移籍、そして契約終了とともにナイキとの関係を解消した。彼女が新たに契約したのは、「Running While Black: Finding Freedom in a Sport That Wasn’t Built for Us」の著者Alison Mariella Désirさんも契約したシアトルの女性向けスポーツアパレルブランドOiselle。ナイキとの契約では「契約が切れたあと他社と契約する場合、それと同じ条件でナイキが契約を要求したら応じなければいけない」という条項があったけれど、Oiselleは比較的安い契約金だけでなく会社の所有権の2%を提示していたので、さすがにナイキは彼女に2%のシェアをオファーできなかった様子。

著者はすごいトップアスリートなんだけれども、陸上界に強大な影響力を持つナイキとレジェンド的な著名男性コーチに疑問を持ちつつそれを押し殺してしまった著者の経験も、そしてそれに耐えられずついにナイキから離脱、そしてナイキの選手軽視やコーチの犯罪行為を告発するに至ったストーリーは、よく見かけるパターンで共感できる。著者が世間からの反発を恐れず公に発言できるようになったきっかけは、2016年にトランプがクリントンを破って大統領に当選した際、思わずツイッターで失望をぶちまけたところ、トランプ支持者たちから猛烈なバッシングを受けたのだけれど、「あれ、世間から叩かれてもせいぜいこんなものか」と気づいて自由に発言できるようになった、という話もおもしろい。