Johann Hari著「Magic Pill: The Extraordinary Benefits and Disturbing Risks of the New Weight Loss Drugs」

Magic Pill

Johann Hari著「Magic Pill: The Extraordinary Benefits and Disturbing Risks of the New Weight Loss Drugs

ダイエット薬として爆発的に流行しているオゼンピックなどのGLP-1受容体作動薬に分類されている薬について、実際にそれを使用して、そして中断するに至ったライターが、薬の効果と副作用とともに、社会的な影響やそれが需要されるようになった社会的背景について論じる本。

著者がオゼンピックについて知ったのは、コロナ籠もりを経て久しぶりにハリウッドのパーティに参加したときのこと。子どものころから少し太めの体型にコンプレックスを感じていた著者は、コロナで家にこもっているうちにさらに体重を少し増やしたことを気にしていたのだけど、パーティに参加したら周囲の人たちはそんな悩みを持たないような体型の人たちばかり。なんで自分だけが、と疑問に思っていたら「あれ、知らないの?」と教えられたのがオゼンピックだった。家系に心臓病で亡くなった人がいることや、肥満だった友人が若くして亡くなったこともあり、心臓病のリスクを減らすにはオゼンピックを使って体重を減らすべきだ、と自分に言い聞かせた著者は、さっそく医者に処方してもらい服用をはじめる。

GLP-1受容体作動薬には体内でのインスリン分泌を増加させるなど血糖値を下げる働きがあり、10年以上前から2型糖尿病の治療に使われている。副作用として食欲と体重を減少させる働きもあり、近年それが奇跡的なダイエット薬としての利用を増やしているが、その仕組みにはよく分かっていない部分も多い。また2型糖尿病の治療に10年以上使われているとはいえ、もともと心臓や腎臓の病気になるリスクが高く社会的なストレスを強く受けている傾向が強い集団だけを対象としたこれまでの臨床データでは元からのリスクに紛れて見逃されている副作用も考えられるし、脳内でどう作用するのかなど研究が遅れている分野も多い。食欲を減少させるだけでなく人生の楽しみに繋がるさまざまな興味・関心を減少させ人々の生きる希望や意志を奪う危険や、逆に食べ物を通して日頃のストレスを解消していた人たちがほかのより危険な方法に流れてしまう危険は。摂食障害の人たちに対する影響も懸念される。このように、仮に糖尿病や極度の肥満により食事制限が有用な人にとってはプラスマイナスで考えたとき利点が大きかったとしても、そうでない人が減量目的でGLP-1受容体作用薬を服用したときにも利益が上回るとは限らない。

著者はオゼンピックの服用をはじめて食欲が減り、みるみるうちに体重を減らしたことで、心身ともに利益を実感し、周囲の人たちに積極的にオゼンピックを勧めるようになった。しかし幼いころからかわいがっていた高校を卒業したばかりの姪がその話を聞きつけて「自分も使いたいので入手できるよう手伝ってくれないか」と相談してきたとき、それまで彼女にありのままの自分を受け入れ愛そう、とつねづね伝えてきた過去の自分の発言との矛盾を突きつけられる。また、著者のことを昔から知る友人に「あなたは心臓病のリスクを減らすためというがそれは本当か」と問い詰められる。極端な肥満は確かに心臓病のリスクと繋がっているが、あなたはもともとそれほど太っていたわけではないし、したがってもともとそれほどリスクが高いわけでもない。オゼンピックがどれだけリスクを減らすか分からないが、それは長期的な副作用が懸念される薬を服用するほどのことなのか。食事改善やエクササイズはそれだけでは長期的な減量には繋がらないとされているけれど、減量できないとしても心臓病のリスクを減らす効果は確実にあるのに、どうしてあなたは薬を選ぶのか。そして仮に心臓病のリスクはオゼンピックと同程度に減るけれど外見が醜くなる薬があったらあなたは迷わず服用するのか。こうした質問に、著者は自分の決断を再考させられる。

アメリカでは20世紀以降、何度も画期的なダイエット薬とされる薬が市場に登場しては深刻な副作用や危険性が明らかになり禁止されてきた歴史がある。覚醒剤も一時期ダイエット薬として大流行したことがあるくらい。肥満のリスクは医学的事実であるとして減量の利点を認めつつ(この点でファット・ポジティヴ運動の一部が掲げる単純化された主張を批判している)、太っている人を差別したり見下すなどといった行為は倫理的に間違っているだけでなく逆効果だし、食事制限やエクササイズも一時的には有効であっても長期的な減量には繋がらないことが分かっている。そもそも人間の体は生存の可能性を高めるために余裕があるときにエネルギーを脂肪として溜め込むように進化しており、食事制限やエクササイズで減量するとそれに逆らうようにエネルギーの浪費を避けできるだけ脂肪を温存するようにできている。食料が豊富になり、しかも食べ過ぎを止めるような体内のメカニズムを狂わせるような高カロリーの加工食品が増えた現在の状況に人間の体は対応できておらず、放っておけば肥満が広まるのは当たり前。GLP-1受容体作動薬はある意味、そうして狂わされた体内のメカニズムを補完することで減量を可能にしており、その限りにおいて糖尿病の人がインスリンを服用するのと変わらないが、本来なら人体に悪影響のある食品を政府が規制し、また子どもたちを含む全ての人たちが健康にいい食事ができるような措置を取るべきだ、というのが著者の持論。栄養バランスの悪い食事が貧困やストレスと強く関連していることから、それはただ単に食品の規制や配給だけでなく、貧困や差別などの社会的な理不尽を取り除くことも必要だ。

ここまではだいたい納得ができる話なのだけど、終盤になって著者は「オゼンピックが必要でない国」日本を訪れ、第二次大戦後の日本が政策として広めた健康な食文化や学校給食の素晴らしさなどを、オリエンタリズム丸出しの表現を散りばめつつ(日本では家の中で靴を脱ぐんだよ!的な)褒めちぎりだして、まあ確かにアメリカの学校のランチよりは学校給食いいよねって思うわけだけど、日本社会にも満足な食事を取ることができない子どもや大人がいることや、太っている人が少ないからこそ余計にスティグマや偏見が厳しくなってしまう問題などは無視している。日本の食事はたくさんのバラエティに富んだおかずを少量ずつ食べるのでバランスがいい、とか言ってるけど、その期待値を満たすために苦労して料理という家庭内労働をしているのは誰なのか、という視点はない。

また、日本を離れる直前には「一見狂っていることをした」としてフグ料理を食べに行った話が出てくるのだけど、そのレストランはヤクザの支配地にあり客のほとんどはヤクザか娼婦だ、とか書いている。。日本ではフグの毒で死ぬ人も毎年出ているけれどアメリカの食生活によって殺される人に比べたらずっと少ない、ヤクザ支配地でフグを食べるほうがマクドナルドで食事するよりマシだ、と著者は言いたいらしいのだけど、それまでまともだったのに最後の最後に何言い出すんだよバカヤロー、と思った。ほんとそれだけが残念。