Jag Singh著「Future Care: Sensors, Artificial Intelligence, and the Reinvention of Medicine」

Future Care

Jag Singh著「Future Care: Sensors, Artificial Intelligence, and the Reinvention of Medicine

インド出身の医師が、テクノロジーの進歩によって医療が将来どのように変わっていくか論じた本。大きくわけてセンサー、リモート診察、人工知能の三つの分野の発達がどのように組み合わさり未来の医療を形作っていくか論じる。

コロナウイルス・パンデミックの初期、著者はCOVID-19を発症して入院し、一時期緊急治療室に入れられるほど危うい状態だったが、世界がパンデミックに対応しようとしているその時に入院していたおかげで、当時の医療がどう変化したかを患者の視点から経験することができた。著者によると、体の状態をモニターするためのセンサーの利用とネットワークを通した記録が拡大し、またベッドの横にタブレットが備え付けられて医師が巡回しなくても病院内でリモート診察できるような体制が整えられるなど、かれが入院していた数週間のあいだに臨床の現場は大きく変わった。また対面診療を必要としていた政府のさまざまな規制が緩和され、家庭用のセンサーやアプリを使った健康管理が推進されるなど、病院外での医療のあり方も変化した。それらの中にはワクチンが広まりコロナ禍が落ち着いてくると元通りになったものもあるが、コロナによる緊急事態が医療におけるテクノロジー利用を大きく押し進めたことは確か。

現在、健康をモニターするためのさまざまなセンサーが、体内に埋め込まれたりスマートウォッチなどの形で着用されるなどして実用化されている。埋め込み式のセンサーはたとえば血糖値などたった1つの数値をモニターするだけのものがほとんどだし、スマートウォッチによる心拍数や血中酸素飽和度の測定はいまだ信用性が足りていないものの、これからそうした技術はどんどん発達していくだろう。またリモート診察の際に必要となる肺や心臓の音などの身体データを自宅で記録して医者と共有するための器具やアプリも広まりつつある。著者はそうしたセンサーがますます普及することでリモート医療がより高度化・一般化するだけでなく、生活慣習やエクササイズをモニターして健康改善に役立てることができるようになると主張する。

またセンサーを使ってより多くのデータを収集することによって、医者が人工知能を診断や治療法の選択に役立てることができるようになる。ある特定の症状を説明する診断は無数にあるが、そのうち医者がまっさきに思いつくのは最もありがちないくつかだけなので、人工知能がほかの可能性を提示することによってそれらの可能性を頭の隅に入れておくことができる。また医学的に有効とされている薬や治療法の多くは主に白人男性を対象とした治験でしか検証されていないため患者によっては有効でない可能性があるが、多様な患者のデータを学習させた人工知能を使うことでよりその患者個人に適切な治療法を考えることができる。

著者はリモート医療や健康アプリの利用に関してプライバシー侵害の恐れがあると書いているが、人工知能に学習させるための患者のデータについてはなぜか同じような懸念に言及しない。もしかしたら、犯罪者や私企業がユーザのプライバシーを個人保護の法律に反した形で収集して利用するのは悪いが、医療を向上させるためのビッグデータ収集は良いことだという前提に立っているのかもしれないけれども、収集されたデータが流出したり内部の人によって悪用されたりする危険は無視できないのではないかと思う。

てゆーか、著者は一時期医者から血糖値の上昇を警告されたが運動や食生活の改善によって健康を維持することができたというのだけれど、ほとんど誰でも同じように2型糖尿病を克服することができると言い、そのためにセンサーを使って血糖値だけでなく運動や食事を監視し「医者の指示に従わない」患者には医療費負担を増やすなどのペナルティを与えるべきだ、とまで言っていて、健康のためのプライバシー侵害は善、という考え方は徹底している。まあわたし的に一番許しがたいのは、センサーを使うことによって患者は自分の健康により責任を負うべきだ、という主張をするために(それ自体はわたしの考えとは違うけれどもまあ分からないではない)オードリー・ロードのセルフケアについての有名な名言を誤用している点なんだけど。

あと、この自己責任論の文脈で、ある健康保険会社が加入者にスポーツジムのメンバーシップを無償で提供していることに触れて、患者に自分の健康を守らせるための良い取り組みだ、実際にエクササイズした人にはさらに特典を与えるべきだ、みたいに言ってるんだけど、これ、Liran Einav et al.著「Risky Business: Why Insurance Markets Fail and What to Do About It」にも書かれているように単なるギミックなんだけど。保険会社はできるだけ健康な人に加入して欲しい一方、あまり健康でない人には加入して欲しくないので、前者にだけアピールするようなシグナルとしてそういう制度を作っただけ。もともとエクササイズする人がそういう保険に入り、結果として保険会社が儲かるだけで、社会全体の健康さには影響なさそうという話。