Ezekiel J. Emanuel & Abbe R. Gluck編「The Trillion Dollar Revolution: How the Affordable Care Act Transformed Politics, Law, and Health Care in America」

The Trillion Dollar Revolution

Ezekiel J. Emanuel & Abbe R. Gluck編「The Trillion Dollar Revolution: How the Affordable Care Act Transformed Politics, Law, and Health Care in America

オバマ大統領の伝記を読んだ次に読もうと思ったのは、そのオバマ政権の代表的な成果である2010年の医療保険制度改革(ACA)いわゆるオバマケアについての本。この本はACA成立からちょうど10年後の2020年春に出版されていてコロナ危機に関する記述はないけれど、公衆衛生学者、医療経済学者、ACAの議論に関わった政治家、ACAをめぐる裁判に関わった法律家などさまざまな専門家がそれぞれの立場からACA成立の経緯やその後10年間の動き、そしてその今後について寄稿している。医療へのアクセス・コスト・クオリティという3つの側面において先進国のなかで最低最悪クラスにあった米国の医療制度をACAはどう変えたか、という論点に関してはだいたいすべての論者が「それぞれ向上はした、でも政治的な状況のせいで中途半端な改革に終わってしまい、本来目指していたほどの改善はできなかった」という認識で一致している感じ。

政治的な状況については、保健福祉長官だったキャスリーン・セベリウス(ACA施行の際、健康保険に加入するための政府サイトの不具合が大混乱を起こした責任をとってサイト修正後に辞任)の章もだけど、ACAに強硬に反対した共和党のエリック・カンター下院院内総務(下院共和党ナンバー2)の章はおもしろかった。カンター議員が言うには、前年の夏からはじまった経済危機が最悪の状態で大統領に就任したオバマ大型景気刺激策を提案した際、民主党が議会とホワイトハウスの両方を握っていたことをいいことに、共和党と協議をせず民主党だけで押し通してしまったことが、共和党議員のあいだにオバマ政権に対する不信感を広め、ACAの議論においても自分たちの案はほとんど聞き入れられなかったと。そのうえで、共和党が議会で多数を取ったあとに「ACAを廃止しなければ予算を通さない」と主張して連邦政府を閉鎖に追い込んだことについては、そんなことをしてもオバマがACA廃止を受け入れるはずがないのにパフォーマンスのために無駄なことをしてしまったと少しは反省している様子。でも他の章を読むと、実際にはオバマや民主党は共和党側の案をたくさん受け入れてACAに盛り込んだのだけれど、それでも共和党からは一票も得られず、その結果民主党内の保守派の票を1票でも落とせないことになりかれらの言いなりにさらに法案が弱体化された、と書かれている。

民主党が共和党に譲ったポイントの1つは、ACAの実際の運用を連邦政府がやるのではなく各州の政府が行うという内容で、これは地方自治と州の権利を主張する共和党への大きな譲歩だったのだけれど、実際のところ共和党が力を持つ州のほとんどがACAへの一切の協力を拒んだため、結局連邦政府がやらなければいけないことになった。また、長大なACAの文面の細かいミスを取り上げてACAを無効にしようとするような裁判を起こしたり、トランプ政権になってからは恣意的にACAが定めた条項の一部を無視したりすることでACAを実質的に破綻させようとする試みが繰り返されたけれど、ACAを廃止に追い込むまでにはならなかった。とはいえACAには細かい文面のミスだけでなく、とくに誰に不利益を与えるわけでもなく本来ならみんなが賛成できるような改善の余地があるにも関わらず、トランプや共和党が「ACAをより良いものにする」こと自体を許せない立場を取っているため、必要かつ有益な改正もできないでいる。

本書の最後は、サンダース議員やウォレン議員が主張する「メディケア・フォー・オール」(M4A、65歳以上の高齢者と一部の障害者を対象とした公的健康保険メディケアの対象を全国民に拡大する政策)をめぐってラーム・エマニュエル元大統領首席補佐官(現駐日米国大使)と政治学者ジェイコブ・ハッカーの2つの論文で締められる。わたし、シカゴ市長時代のエマニュエルに抵抗するアクティビズムに関わっていて悪印象しかないので読み飛ばしてやろうかとも思ったのだけれど、カンター元議員の章と同じく意見の違う立場だからこそ読んで良かった。エマニュエルはACAをM4Aに置き換える主張について、政策的にはM4Aは優れているかもしれないが政治的に可能性はゼロだし、多くの人の反発を買い民主党の議席を減らし、さらにM4Aを主張して当選した民主党議員が結果的に有権者に嘘をつくことになってしまうから主張すべきではない、と言っている。また、非正規移民に対して公的医療保険を提供するべきだという主張も反発を呼ぶからやめろと。そのかわりにエマニュエルは、これまでメディケアをはじめとする公的保険が高齢者、障害者、貧困家庭の子ども、妊娠中の女性、のように国民の理解を得やすい人たちを対象に少しずつ広げられてきたことに学び、これからも少しずつ対象を増やしていくべきだと主張する。かれによれば、次の「理解を得やすい人たち」は、55歳〜64歳の早めに仕事を辞めて引退する人たちだと。

それに対しハッカーは段階的な拡大については必ずしも否定しないものの、「理解を得やすい人たち」を追い続けることは結果的に「理解を得にくい人たち」(非正規移民、障害がない失業者や貧困層など)を恒久的に置き去りにすることになる、と指摘する。また、議論されているさまざまな段階的なメディケア拡大案は規模が小さすぎて十分な経済的スケールを実現できないばかりか、高額な医療を必要とする人だけが加入するという逆選択の温床となる。そうならないためには、ある程度の規模が見込める一定の条件を満たした人たちを自動的にメディケアに加入させる仕組みが必要だと主張。たとえば現状、ある程度の規模があるのに従業員に健康保険を福利厚生として提供しない雇用者にはペナルティが課されるけれど、かわりにそうした企業の従業員を自動的にメディケアに加入させ、ペナルティのかわりにその費用を企業に支払わせるなど。こうした場合、メディケアがすべての民間保険に取って代わるわけではないのでM4Aにはならないものの、ほかの手段で健康保険を得られない人たちすべてがメディケアに加入することで皆保険は実現する。有権者は選挙でただ単に「M4Aに賛成します」という候補ではなく、皆保険に至る道筋をきちんと示せる候補に投票すべきだとハッカーは言う。

この本を読んで、ACAの各章の内容が実際どうなのかとか、ACAに対して起こされた裁判でどういう論点があったのかとか、これまでぼんやりとしか分かってなかった部分が理解できたとともに、10年以上も前に成立した法律をより良く改善することすらできない(それが改善であるかどうかで紛糾するのではなく、改善自体が拒絶される)いまの政治的な状況のどうしようもないダメダメさを改めて感じた。トランプも、ACAに反対だから廃止すべきだと主張するだけならまだしも、議会でちゃんと成立した法律を気に入らないからと無視したり、さらには裁判で訴えている側に政府として肩入れするとか、ひどすぎる。ACAの成立と存続がどれだけ危ういものだったのか分かったし、それを実現させたオバマもすごかったけど、もうちょっと頑張ってほしかったという気持ちは変わらなかった。また、コロナ騒動を経て医療制度をめぐる議論がこれからどう変わっていくのか気になる。