Helma Lutz著「The Backstage of the Care Economy: Transnational Perspectives on the Commercialisation of Care」
先進国のケア不足、とくに共働き家庭の子どもや老人をケアする労働力の不足を解決するために出稼ぎに来る、ほとんどは女性の移住労働者たちが国に残した彼女たち自身の家族への影響や、彼女たちの存在をめぐる祖国でのモラル・パニックといった、国際的なケア経済の「バックステージ」を追った本。著者はドイツの社会学者。
アメリカにおけるケア移住労働者の議論では、フィリピンをはじめとするアジアや中南米出身の女性たちが注目されており、主に白人の中流階層上位の女性たちが賃金労働を続けるためにアジアや中南米出身の女性たちの家庭内労働に頼る図式は、その人種主義的かつ搾取的な性質から批判を浴びつつある(が、それは白人女性とそれ以外の女性の利害対立として描かれ、当たり前のようにケア労働を逃れている白人男性たちは批判を免れることが多い)。いっぽう本書はドイツ語圏のドイツ・オーストリア・スイスの三カ国で働く主にポーランド出身の女性たちと、そのポーランドの富裕層のために働くウクライナなど出身の女性たちやその家族へのインタビューと、彼女たちの出稼ぎについてそれぞれの祖国で繰り広げられるメディア上の論争の分析を元にしているが、アメリカでの議論と異なりケア労働を行う移住労働者たちも外見上ドイツ人と同じ白人の女性なので、その人種主義的な側面はあまり注目されない。しかしそこには確実に東欧系の白人をドイツ人より下に見る伝統的な人種主義がある。
共産主義時代、東欧の人たちには政治的な自由はなく、家庭内における男尊女卑や性役割分担は資本主義祖国と同様に維持されていたが、いっぽう家庭に対する福祉支援や女性に対する職業上の平等は制度的に一応保障されていた。しかし共産圏の崩壊後、政府は家庭への福祉や労働者保護の政策を次々に撤廃し、生活が苦しくなった人々の多くは西側諸国で出稼ぎ労働を行うようになる。そうした労働者たちには男性も女性もいたが、男性は短期労働者として一週間単位でポーランド人なら隣国のドイツで働いて週末に家族の元に戻るという形が多く、また男性が家庭から離れることは社会的に問題視されなかった。しかし女性の多くは数週間から数ヶ月の単位で自分の家族を故国に残しドイツ人の家に住み込んで他人の家族のケアに明け暮れることになり、ポーランドやウクライナなどでは主に右派ナショナリストの政治勢力によって「我が国の女性が自分の家族の面倒を見る責任を放棄して外国で好き勝手な生活をしている」としてバッシングがはじまる。
そうしたメディアのバッシングは「ユーロ孤児」という用語を生み出し、出稼ぎ労働によって多くの子どもたちが誰にも愛されずに育っているというモラル・パニックが広まったが、実際のところほとんどの子どもたちは父親や祖父母、親戚やコミュニティのメンバーたちによって大切に育てられており、孤児というのは間違っている。もちろん、子どもを育てるお金を稼ぐためとはいえその子どもを国に残してきたと感じる母親の罪悪感や苦悩や、母が出稼ぎにいかなければいけない理由もよく理解できずに母に捨てられたと感じる子どもの疎外感など、出稼ぎ労働を強いる国際的な経済状況は決して無害ではないけれど、経済的な保障もないまま母親だけに家庭内ケア労働の責任を押し付け彼女たちが母親失格であるかのように騒ぎ立てるモラル・パニックはその現実をなんら解消しないばかりか、彼女たちが感じている罪悪感をさらに募らせるだけ。国際的なケアの流通に対する批判は必要だけれど、どういう批判をするのか、どういう解決を目指すのかという点はよく考えなければいけない。
本書は女性ケア労働者やその家族へのインタビューが多数紹介されており、彼女たちが経験するさまざまな理不尽や出身国・ドイツ双方による保護の欠如、子どもたちの経験などとともに、中には出稼ぎに行った妻に一家の大黒柱としての役割を奪われ子育てを任されたために男性性を脅かされて必要以上に自分こそが妻の労働をマネージしているのだと言いたがる夫がいたりするのも興味深い。また、ここでは十分に紹介できなかったけれども、ポーランドの裕福な家庭で働くウクライナ西部出身の女性たちについて取り上げ、ポーランドがケア労働の輸出国であると同時に輸入国でもあることも指摘されている。最後には、社会主義フェミニズムにより家事労働への賃金を求める(と言いつつ実際のところその訴えをとおして資本主義の矛盾を突きつけ社会主義への以降を目指す)運動や、コロナウイルス・パンデミックによるロックダウンや国境閉鎖によって家に帰れなくなって危険な状況で労働を強要されたり出稼ぎに出られなくなった女性たちの経験などについても触れられる。