
Gisèle Pelicot著「A Hymn to Life: Shame has to Change Sides」
2020年にフランスで発覚し世界を震撼させた長年に渡る性的虐待の被害者として50人以上の加害者を相手に公開の裁判に挑んだジゼル・ペリコさんによる自叙伝。わたしが読んだ英語版はフランス語からの翻訳だけれど発売は同時。
ペリコさんが被害者となった事件については彼女の娘キャロラインさんが書いた「I’ll Never Call Him Dad Again: By the daughter of Gisèle Pelicot: Turning our family trauma of Chemical Submission into a collective fight」を先に読んでいたのでキャロラインさんの目線から書かれた話がジゼルさんの視点から補完された。
よく知られている事件だけれど一応説明しておくと、ジゼルさんは1973年に結婚していらい別居していた時期はあったけれど長年付き添ってきた夫に薬物を飲まされ、意識がないところを夫や夫がネットで集めた多数の男性たちに性的虐待され、その様子を画像や映像として保存されていた。薬物を投与された影響で普段から意識の混乱や記憶違いが頻発したりその他の身体的不調があるなどしたものの、医者に相談しても老化の影響だと片付けられて真相は明らかにされない。ある日夫が店で知らない女性のスカートの中を盗撮していて現行犯で捕まったことを知るが、その時点では夫はやってはいけないことをしてしまったけれど隠さず自分に事実を伝えてくれた、本当に悪い人ではない、と信用していたが、警察の捜査による夫のデバイスから意識がないように見える彼女を多数の男性が性的に暴行している記録が出てきて真実を知る。50人を超える加害者の裁判に証人として呼ばれるが、性暴力被害者を保護するために審理を非公開とすることもできたが、ジゼルさんはあえてそれを拒否し、加害者たちを公の裁判に引きずり出して多くの女性やサバイバーたちの支持と共感を呼んだ。サブタイトルは「恥を感じる(感じさせられる)のは被害者ではなく加害者の側であるべきだ」というすごく当たり前で、でも現実が追いついていない信念を示している。
本書はジゼルさんや夫が生まれ育った家族の話から、かれらの出会い、結婚生活、そして事件発覚までの長い歴史についての記述と、ジゼルさんが自身に対する犯罪行為を知って以降経験したことが交互に繰り返される。結末を知っているからというのもあるかもしれないけれど夫の過去の話を読むとやっぱり「こいつやばいんじゃね?」という危険を指し示すサインはいくつもあるものの、同時代のほかのシスヘテロ男性と比べてとくに危険な感じでもなく、かれがあれほどのことをするとはやっぱり誰にも予想できない。かれと一緒に捕まった50人以上の加害者たち、そしてついに正体が分からず起訴されなかった何人かの加害者たちも含めて、幼いころから明らかに異常でいつか問題を起こすと周囲に思われていたような人はほとんどいなかったんじゃないかと思う。それだけ普通に見える人が、ネットを通して出会い、集団であれだけのことをするとは思えない。ジゼルさんだって、夫のことでいろいろ不満はあっても、何十年も寄り添ってきた夫がそこまでの人だとは気づきようがない。ただただ怖い。
娘キャロラインさんとのあいだに生じてしまった溝についても本書は少し触れている。キャロラインさんはジゼルさんから父親の逮捕を告げられたとき叫ぶのを止められなかったほどショックを受け、またのちにキャロラインさん自身も性虐待そのものの記録ではないもののパジャマでポーズを取らされているような写真を撮られていたことがわかり、自分も父親やかれが集めた男性たちによって暴行を受けたのではないかと思いはじめる。しかしジゼルさんに対する犯行を認めた夫は娘に対する虐待は(写真を撮ったことや所持していたことすら)一切否定し、また何も物理的証拠もないため、キャロラインさんに対する犯罪行為は立件されなかった。仕方がないことなのだけれど、彼女は警察だけでなく母にも被害を否定され裏切られたと感じたのもよく理解できる。
ジゼルさんは夫を許しがたいと思いつつも、刑務所の中で孤立している、暴行におびえている、という夫の連絡(そもそも連絡を取ること自体を禁止されていたけれど、夫は知人を経由して違法に連絡を取った)に心を痛め、かれを支えたいと思ってしまったり、そこに夫が意図的にジゼルさんとキャロラインさんを引き離そうとして流したウソが含まれていることがわかったりして、彼女の心は揺らされる。そしてそれに対してキャロラインさんは母が父を許して不問にしてしまうのではないか、傷ついた自分よりも傷つけた父を選んでしまうのではないかという不安を抱かされるというように、かれの姑息な工作はそこそこ成功していた。嫌すぎ。
そんな風に揺り動かされ、時には同じ被害者同士で対立させられそうになる弱さを認めつつ、それでも被害者に押し付けられる恥を振り払い、加害者たちに自分の行為を恥じるよう迫るジゼルさんの行動は希望を与えてくれる。わたしも性暴力の問題についていろいろ考えてきたけれど、サバイバーが最も求めているものの一つは、加害者が自分の行為をほんとうの意味で知り、理解し、それを背負って残りの人生を生きることではないか、とここ10年ほどは思うようになっている。その要望に応えようとする加害者は多くないし、刑事司法制度は逆に極力責任を認めずあらゆる事実を争い罪状を少しでも軽くするか、口先だけ反省したふりをして大人しくしていることが有利になる制度であり、サバイバーの要望に応えて自分の行為に真摯に向き合うことを奨励する社会的な仕組みは存在しない。
そうでなくてもこのところ、ジェフリー・エプスタイン事件の資料が連日少しずつぽたぽたと水漏れでもするように公開され、サバイバーにとってはソーシャルメディアを眺めるだけでも辛い日が続いているなか、それでも恥を跳ね除けて発信をしている著者やその他のサバイバーたちの存在には感謝しかない。てかこんなの全然当たり前じゃねーんだぞ、もっとみんな感謝しろ。