Aimee Donnellan著「Off the Scales: The Inside Story of Ozempic and the Race to Cure Obesity」

Off the Scale

Aimee Donnellan著「Off the Scales: The Inside Story of Ozempic and the Race to Cure Obesity

もとは2型糖尿病治療のために開発されたが肥満治療や体重減少のために使われることが増えているオゼンピックなどのGLP-1受容体作動薬についての本。研究・開発の歴史や効用と副作用、商業的な展開、社会的な影響などについて取り上げる。

GLP-1受容体作動薬については以前にも実際に服用し、そしてそれを辞めた経験のある著者によるJohann Hari著「Magic Pill: The Extraordinary Benefits and Disturbing Risks of the New Weight Loss Drugs」を紹介しており、内容はかなりの部分重複している。ただし本書はGLP-1研究の歴史についての記述が詳しく、そのなかで女性研究者の功績が男性に盗まれていく例のパターンについて触れたり、肥満を自己管理の欠如とするのか疾患の一つとして治療薬を開発しようとするのかという製薬会社内の路線対立について書かれている点が良い。また「Magic Pill」より後発なだけあって、深刻な副作用についての記述やその経験者たちによるオンライングループの立ち上げや裁判についての記述も増えている。

「Magic Pill」とともに本書も指摘するように、メディアを通してファッション業界や美容業界により非現実的に痩せ細った(とくに女性の)体型が理想化された1990年代から2000年代を経て、2010年代には身体をそのまま受け入れ、また大切にしていこう、という機運が高まった。こうした動きはインターネット・インフルエンサーや小規模なブランドなどによって広められ、大手企業もより多様な体型のモデルを宣伝に採用したり、多様な顧客のニーズに応える商品を開発するようになり、また太っている人を含めた身体を肯定するボディ・ポジティヴやファット・ポジティヴの運動も広がった。

同時に、肥満やそれと結びつけられた糖尿病や高血圧が社会的格差と強く繋がっているという認識も広まった。貧しい人が住む地域には新鮮な野菜や果物を売っている店がそもそもなく、生活のためにいくつもの仕事をかけもちする家庭には調理にかける時間も労力もないなか、安く手軽に入手でき手間もかからず保存もきくファストフードや加工食品に頼らざるを得ない人が多い。差別や貧困によるウェザリングにより健康を劣化させられ、住む地域の環境は汚染され、危険で不衛生な職場で働かされるだけでなく、体を壊しても十分な医療を受けられない人が多いなか、肥満や生活慣習病と呼ばれる疾患は格差と結びつけられていく。以前「アメリカでは太っている人は自己管理がなっていないとされて就職差別を受ける」という話が日本で広まっているのを聞いたけど、それは階級差別や人種差別をそれっぽい自己責任論で誤魔化しているだけ。

コロナウイルス・パンデミックによるロックダウンで体重増加を気にする人が増えていた2020年以降、糖尿病の治療薬として使われてきたGLP-1受容体作動薬はジョン・フェターマンと上院議員の座を争った「ドクター・オズ」ら健康系インフルエンサーによりダイエット薬として宣伝され、一気に大人気に。実際に減量に成功した人たちは、急に出世のチャンスを与えられたり親や親戚からの扱いが良くなったりデートに誘われるようになった一方、重大な副作用を経験して「どうして以前の自分ではダメだと思ったんだろう」と悩む人も。ふたたび痩せた外見を重視する風潮が広がると、高級ファッションブランドや急激な減量による体のバランスを是正するための整形手術などの需要が高まる一方、ファストフードや加工食品に対する需要は目に見えて減少した。

GLP-1受容体作動薬はEli LillyとNovo Nordiskの二社によって販売されているが、いまのところ値段が高く、かなり収入が高いか一部の大企業が従業員に提供する健康保険を受けている人しか正規の手段ではアクセスできない。より安く売られている海外からの個人輸入などグレーな方法で手に入れる人もいるが、それでもまだそこそこ高いし、それができるのも一部の人たちだけ。こうした事実は、階級による外見の格差や偏見をさらに助長しただけでなく、ファストフードや加工食品のメーカーが貧困層(や薬が手に入らない途上国)をターゲットとした売り込みを強化することで、さらに健康格差を深刻化している。また、2010年代に広まった、身体的な多様性を尊重する風潮は吹き飛び、ファッションやブランド展開のトレンドも逆行する。

しかし本書はあくまで基本的にGLP-1受容体作動薬に対して好意的で、とくに特許が切れてジェネリック薬が登場すると肥満や生活慣習病の治療が進みアメリカのアホみたいに高い医療費が削減されその分ほかの分野に予算が回されることを期待する。肥満に限らずスティグマされた身体的・精神的差異については、たとえば障害であれ精神疾患であれ、あるいは依存症や自閉症スペクトラムや同性愛やトランスジェンダーなど、個人の責任となる問題なのかそれとも疾患なのか、多様性なのか環境破壊や格差による結果なのか、など議論が尽きないが、本書はそのあたりをあまりうまく整理できておらず、ボディ・ポジティヴや健康格差についての内容が十分に接続されていない。こういう懸念もあります、こういう見方もあります、と紹介しているだけでも良心的なのだけれど、もうちょっとなんとかならなかったのかな、とは思う。