Sarah Goodyear, Doug Gordon, & Aaron Naparstek著「Life After Cars: Freeing Ourselves from the Tyranny of the Automobile」

Life After Cars

Sarah Goodyear, Doug Gordon, & Aaron Naparstek著「Life After Cars: Freeing Ourselves from the Tyranny of the Automobile

交通行政や都市政策をカバーするジャーナリスト・ライターでポッドキャスト「War on Cars」ホストの二人を含むチームによる、反自動車(自家用車)文明の本。車は子どもたちから行動範囲や遊び場所を奪い、自然を傷つけ、動物や人間を殺し、都市を駐車場危険な道路だらけの空間に変え、人種差別的な都市設計や取り締まりを生み出してきた、と自動車文明をボコボコに。

車にはもちろん必要な物資や遠方の親戚や友人を訪れる人々を運んだり、公共交通網の乏しい田舎での生活や障害がある人の社会参加を支えるといった重要な役割もある。バスや鉄道において差別を受けてきた黒人や身の危険を感じる女性にとっては自分だけの空間にこもって移動できる自動車は安全のためにも役に立つ。しかしこれほどまで多くの自動車が街に溢れ、そのために街そのものが設計され、それによって起きている人々の安全や自然環境に対する被害が当たり前のものとして受け入れられているのはおかしいのではないかと著者たちは言う。人々が安全で健康な生活をし、ほかの生物や地球環境への負担を軽減するには、自動車ありきで社会を設計することをやめる必要がある。電気自動車の普及や今より進んだ自動運転車は起きている問題の一部を解決するかもしれないが、公共交通機関の整備や道路の設計の変更などによるアプローチは既に各地で成果をあげはじめている。

コロナウイルス・パンデミックによるロックダウンで街から自動車が消えたことは、自動車を減らせばどのような可能性が生まれてくるのか示してくれた。ほんの数ヶ月のあいだ自動車が激減しただけで、大気汚染が改善し、事故(と呼ぶべきではない、とJessie Singerは「There Are No Accidents: The Deadly Rise of Injury and Disaster―Who Profits and Who Pays the Price」で主張していたが)も激減、野生生物の生息圏が広がるなどしただけでなく、室内で営業できなくなったレストランの前の道路に椅子やテーブルが並べられ人々が集まる場になるなどした。自転車での移動や徒歩での散歩は格段に安全になり、自動車がもたらす快適さや利便さがなにを犠牲にしてきたのか思い出させた。

自動車を中心とした都市設計は変えられないものではない。いま各地の都市で公共交通機関の充実や自転車や歩行者の安全を守るための交通政策の変更、多すぎる駐車場を人々が必要としている住居に転換する動きなどが進められており、著者たちもそうした動きを推進する活動をしている。わたしの住むシアトルでもこうした運動は多くの支持を集めており、来月のシアトル市長選挙では公共交通機関利用者の団体を長年率いてきた都市政策のエキスパートが有力候補となっているくらい。同時に、自動車の役割を頭ごなしに否定するのではなく、車が必要な場面では車を利用したうえで、多くの人が日常的に自家用車を乗り回さざるをえないような、そして運転できない人や車を維持する費用が払えない人が極端な不便や不自由に苦しむような、人々の安全や健康を犠牲にし、自然環境や動物に持続不可能な負荷をかけるような社会的設計を変えようとする著者たちの立場は納得がいく。

ただ一つだけ気になったのは、交通違反の取り締まりにおいて人種差別があり、警察による多くの黒人たちの殺害に交通違反取り締まりが関係していることに触れた部分で、人種差別的な警察の行動をなくすために交通違反の取り締まりは監視カメラを使って全自動で行うべきだ、と書いている部分。「警察は差別をするがカメラは差別をしない」と言うけれど、実際にはカメラをどこに設置するか、どう運用するか、顔認識システムがどのように設計されているか、などさまざまな形で監視カメラによる取り締まりは差別をするし、交通違反の取り締まりのために設置されたカメラは政府・警察による人々の追跡を可能にし、既に移民排斥や妊娠中絶が禁止された州から手術を受けられる別の州に自動車で移動した女性を追跡するためにも使われている。警察による差別行為や市民の殺害を無くすにはカメラによる市民監視ではなく市民による警察の監視と管理が必要であり、警察に監視カメラという新たな道具を与えるべきではないと思うのだけれど。