Sa’ed Atshan著「Queer Palestine and the Empire of Critique」

Queer Palestine and the Empire of Critique

Sa’ed Atshan著「Queer Palestine and the Empire of Critique

ハマスによる大規模なミサイル攻撃とイスラエルによる過剰な報復によってガザの人道危機が深まるなか、ややこしそうだから後回しにしていたパレスチナのクィアたちとかれらに連帯する世界の運動についての2020年の本にようやく手を出した。著者はパレスチナ出身のゲイ男性で米国在住の人類学者。

本書のテーマは、2000年代以降に世界に広まったパレスチナのクィアやトランスの人たちへの国際的な連帯運動と、その停滞について。イスラエル国家によって分断・占拠されたパレスチナのクィアやトランスの人たちは、移住植民地主義による抑圧と同時にパレスチナ社会・イスラエル社会それぞれのホモフォビアやトランスフォビアに晒され、生存を脅かされている。イスラエルは「中東唯一の自由民主主義」を自称しクィアたちが安全に暮らせる先進的な社会であることをアピールする(ピンクウォッシング)一方、イスラエル国籍を持つ国内のパレスチナ人に対等な権利を認めないどころか、パレスチナ人のクィアたちを家族やコミュニティにアウティングすると脅迫してスパイに仕立て上げようとし、その結果として「本来パレスチナにはゲイはいない、いたとしたら自文化への誇りを失った西洋かぶれの裏切り者」というパレスチナ社会における偏見を強化しさらにかれらの状況を悪化させる。クィアたちが安全に暮らせるはずのイスラエル社会でもパレスチナ人のクィアやトランスの人たちは難民や移民として受け入れられることはなく、生活のためにユダヤ系イスラエル人の同性相手の売春を行っていたところ捕まり国外追放され、その際わざわざ「こいつはゲイで売春者でユダヤ人と通じていた」と宣伝されたせいでその後の消息が途絶えた人もいる。

著者自身も深く関わっている、2000年代に広まったパレスチナのクィアやトランスの人たちへの国際的な連帯運動は、移住植民地主義・帝国主義・民族差別とホモフォビア・トランスフォビアがかれらの生活のなかで深く結びついており、どちらも同時に取り組む必要があることを踏まえたものだった。しかしそうした運動はイスラエル擁護派やパレスチナの保守勢力だけでなく、パレスチナ解放の目的を共有しているはずの左派やアカデミアからの厳しい批判を浴び、その結果として現在の停滞に陥ってしまっている。帝国主義に対する批判の論理は「批判の帝国主義」に転化し、どのように関与したとしても右派・左派双方から袋叩きにされる状況は国際的な連帯運動への関わりを限りなく「面倒くさいこと」にしてしまった。わたしが本書を「ややこしそうだから」と後回しにしていたのも、そのあたりの面倒くささを感じているからなのかもしれない、と少し反省。

パレスチナへの連帯運動において大きな役割を果たしているものに、ピンクウォッチングとBDS運動がある。前者はイスラエル政府がイスラエルをゲイにとっての天国であるように宣伝しパレスチナ人に対する人権侵害をごまかそうとする行為を監視し適時批判していくもので、後者はイスラエル政府およびイスラエルによる違法な占拠や人権侵害から利益を得ている企業や機関に対する経済的・文化的なボイコットを中心としたもの。とくに後者は南アフリカのアパルトヘイトに対する国際的な反対運動で成果をあげたものであり、パレスチナ社会の広範な支持のもと国際的に呼びかけられているものだ。

これらの戦術はパレスチナに連帯する世界の人たちに具体的に参加できる方法を指し示したが、なにがピンクウォッシングに当たるのか、誰がボイコットの対象となるのか明白な基準がなく、より厳しい運用を求める人たちによって運動が歪められ、パレスチナ人のクィアやトランスの人たちが自分たちが経験したホモフォビアやトランスフォビアについて語ることが「イスラエルによるピンクウォッシングに加担している」とみなされたり、イスラエル国内で活動するパレスチナ人のクィアやトランスの団体やアーティストらがイスラエルの組織や研究機関との繋がりを理由にボイコットの対象とされたりした。もちろんその中には実際にイスラエル政府の支援を受けピンクウォッシングに加担しているものもないわけではないが、多くは厳しい状況のなかできる限りの抵抗を行っている人たちだ。

またアカデミアからも、「Desiring Arabs」著者のジョセフ・マサドによる「ゲイ・インターナショナル」論や、「Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times」(って日本語で出版されてないの?マジ?ありえねー)のジャスビア・プアーによる「ホモナショナリズム」論などの容赦ない批判が浴びせられる。

マサドは「ゲイ」というアイデンティティは西洋文化に特有のものであり、アラブ世界においては同性間の欲望や性行為をアイデンティティとはみなされてこなかったと指摘、「パレスチナのゲイ」に対する国際的な連帯は実際には本来存在しなかった西洋的なアイデンティティカテゴリをアラブ世界に押し付ける植民地主義的暴力であり、それへの反動としてアラブ世界にホモフォビアやトランスフォビアを巻き起こしていると主張する。ことさらに欧米の真似をしてゲイというアイデンティティを主張しなければホモフォビアも起こらなかったという論理だが、これが通用するのはカミングアウトさえしなければ平穏に生活できるゲイ男性たちだけであり、レズビアンやトランスジェンダーの人たち、またかれらの平穏な見せかけの結婚に巻き込まれる異性愛女性たちへの配慮はない。

一方プアーは欧米のゲイ・コミュニティがパレスチナのクィアたちを「野蛮な自文化のかわいそうな犠牲者」として連帯を唱えることでアラブ文化を見下すと同時にイスラエルやアメリカによる帝国主義的な暴力を放置していると批判。しかしプアーはその実例を一つも挙げず、国際的な連帯運動がパレスチナ人のクィアやトランスの人たちの権利と同時にパレスチナの解放とイスラエルやアメリカの帝国主義批判を両立させていることを無視している。これらの論理が当てはまる例ももちろんあるだろうが、問題はそうした論理がたとえばピンクウォッシングを行うイスラエルやアメリカ、あるいはパレスチナの解放運動に関心のない白人ゲイ団体ではなく、パレスチナの解放とクィアやトランスの人たちの自由を目指す国際的な連帯運動を直撃していること。しかも、かれらがどう反論しようと「理論を理解していない」の一言で却下されてしまう。

パレスチナのクィアやトランスの人たちに対する国際的な連帯運動は、このように帝国主義的国家や強大な権力に向けられるべき帝国主義批判が対象を間違えた「批判の帝国主義」に晒され、ここ十年ほど停滞に追い込まれている。今回の人道危機によってふたたびパレスチナの人たちが置かれている絶望的な状況が世界の注目を集めるなか、パレスチナのクィアやトランスの人たちが忘れ去られたり、逆に権力者によって都合よく利用されたりしないよう、注視したい。