Talia Mae Bettcher著「Beyond Personhood: An Essay in Trans Philosophy」

Beyond Personhood

Talia Mae Bettcher著「Beyond Personhood: An Essay in Trans Philosophy

過去25年ほどのあいだ最も認知されてきたトランス(ジェンダー)哲学者が自身の過去の論文を再構成しつつ「トランスの立場から見た哲学」を論じる本。初期に発表した論文から取られている部分など特に、新たな用語が次々に出てきたり議論に移る前に本題とどう繋がってるかしばらく明らかにならない概念についての話が延々と続いたりと若手哲学者の本にありがちな「イキってる感」があるんだけど、実はそんなに難しいことは言っていないというか、正直なところ、彼女がはじめてこれらの議論をはじめた時期から現在までの間にトランスコミュニティにおける会話が彼女の哲学を追い越してしまっている気もする。

本書はトランスジェンダーについての哲学ではなく、トランスジェンダーの存在や経験を前提としそこから見えてくる人格や身体、差別や抑圧についての考え方を扱った哲学の本。しかしトランスジェンダーについて扱っている部分のほうが断然わかりやすく具体的で、著者も参加した「Trans Philosophy」の紹介でわたしが書いたような、「これまでトランスジェンダーにもクィアにもフェミニズムにも関心がなかったシス男性哲学者たちらが突然トランスジェンダーの哲学的検討に興味を抱き、トランスジェンダー当事者の実存を無視するだけでなく、既存の文献やこれまでの議論の蓄積を一切踏まえないまま、トランスジェンダーについて観念的に取り上げた論文を書いたり、すでに何周も周回遅れになっている古臭いヘイト言説を『世間の常識を揺るがす新鮮な批判的視点』みたいに持ち上げたりする」ことが横行している哲学界に対して、「トランスコミュニティやトランス哲学者のあいだではもうここまで話が進んでいるんだから最低限それを押さえてから口を開けろ」と言いたくなる。

著者はしかし、「トランスジェンダーはこうだ」「トランスアライはこうすべきだ」といった世間の単純な理解を真っ向から否定する。「シス」や「シスジェンダー」という用語の機械的な採用やトランスジェンダーの一般的な定義を否定するところからそれが分かる。著者はトランスジェンダーについて一般社会や多くの当事者たちが採用している二つの主要な理論、すなわちトランスジェンダーは身体的な性別と性自認が一致しない人のことであるという理論(wrong body account)と、トランスジェンダーは性別二元制の犠牲者でありその変革を行う改革者なのだという理論(beyond the binary account)の双方を批判し、トランスジェンダーだけでなくあらゆる人たちのアイデンティティを関係性から理解するinterpersonal spatiality(対人間空間性)の理論を提唱する。なんだよそれって思うだろうけど、著者が人生を書けて理論化し一冊にまとめあげた話をわたしがここで一言で説明しちゃったら次に会ったときにわたしが怒られるから気になるなら自分で読んで。でもまあ、たしかに一般社会のトランス理解に対する批判にはなってるけど、彼女が言っているようなことは今では本書の記述より圧倒的に分かりやすい言葉で普通にトランスコミュニティ内で語られているんだよね。

ちなみに著者が「トランスジェンダーの反対」の意味で「シスジェンダー」という言葉を使わない理由は、C. Riley Snorton著「Black on Both Sides: A Racial History of Trans Identity」やEmma Heaney編「Feminism Against Cisness」でも論じられていたことと同じであり、そもそもシスネスは(当時はそういう言葉は使われなかったが)植民地主義と奴隷制を正当化するなか生まれたカテゴリであり、アフリカや南北アメリカの先住民たちはそこから排除され、男性でも女性でもないオスやメスとして管理されていた、という認識に基づく。とくに本書はアルゼンチン出身のフェミニスト哲学者マリア・ルゴネスやキューバ系アメリカ人クィア理論家ホセ・エステバン・ムニョスらに依拠しながら西欧的な身体理解とそれに基づいたシスネスの植民地性を論じる。「Feminism Against Cisness」はシスネスのそうした歴史的な機能に批判的に言及するためにあえてシスネスという言葉を使っており、シスネスが歴史や文化から独立した自然なカテゴリであるかのように扱うことを拒む著者の態度とは矛盾しない。