Russell Muirhead & Nancy L. Rosenblum著「Ungoverning: The Attack on the Administrative State and the Politics of Chaos」
以前から「小さな政府」を掲げて規制緩和や政府縮小を主張してきた共和党が、そうした理念を超えて「政府による統治」自体を攻撃するようになった経緯をまとめた本。
政府が経済や市民生活に対してどの程度関与すべきか、どのような権限を持つべきかというのは、政治において古くから争われてきた論点。たとえば昔だと、白人たちによる奴隷所有の自由に政府は干渉すべきでないという主張と、黒人たちの自由を守るために政府は奴隷制度を禁止すべきだという主張のあいだの論争は、奴隷制そのものが良いか悪いかという論争であるとともに、政府の目的は何なのか、政府はどのような「自由」を尊重すべきなのか、という価値観をめぐる争いでもあった。まったくひどい論争だと思うけれども、少なくともそれはどのような統治を行うかについての論争ではあった。
本書が「非統治」(ungoverning)と名付ける政治的な動きは、政府の役割をめぐるそうした論争を超えて、政府の統治自体を否定し、政府が統治するための能力を破壊していこうという立場。たとえば共和党の一部が主張するアメリカ国税庁の廃止は、連邦税の徴収を困難にすることで連邦政府の機能を停止させることを目指しており、自分たちの価値観に基づいたより良い統治を行おうという意思に基づくものではない。
「非統治」主義がとくに標的とするのは、ニューディール政策以降肥大化してきた——「小さな政府」を掲げ政府を縮小すると訴えたレーガン、ブッシュ43rd、トランプ大統領らもそれぞれ結局は新たな省庁を創設するなどして政府を膨らませている––連邦政府で働くキャリア官僚たちだ。一般的に、議会が通す法律では大まかな目的や規制の対象が決められるだけで、具体的な規制や規則の内容は連邦政府の行政機関に丸投げされる。行政機関では関係者らに聞き取りしたうえで専門家らが規制や規則の原案を作り、それを公表してパブリックコメントを募ったうえで最終決定する。
アメリカ建国当時ならともかく、現代の複雑化した社会において議会が細かい規制まで全部決めるのは能力的にも時間的にも現実的ではなく、また法律として通してしまうと現実にそぐわないことが分かったり社会的状況が変化しても簡単には修正できなくなってしまうので、有効な統治を行うためにはこうした仕組みにするほかない。しかし共和党のあいだでは、選挙で選ばれたわけでもないキャリア官僚たちによる「ディープ・ステート」が民主主義を否定し勝手な政策を実施している、という陰謀論が広がり、政府機関は議会が決めたことだけを行うべきだ、という非現実的な要求をゴリ押しし、しかもかれらに協力的な保守派の最高裁判事らがそれに同調したせいで、とくに環境保護や人権尊重の分野において政府の機能が麻痺しつつある。
もともと共和党には、企業が環境や労働環境などに配慮せず自由に活動できるように政府の規制をどんどん撤廃しようという考え方があり、「非統治」主義はそれがさらに先鋭化したものだと言えるが、一見その考えに同調しているようでありながらまた別の方向に進んでいるのがドナルド・トランプだ。かれは外交政策や通商政策で連邦政府で働く専門家たちと対立し、コロナウイルス・パンデミックへの対応では公衆衛生行政を否定し攻撃したが、その一方でブラック・ライヴズ・マター運動への対処や選挙結果への介入などにおいて政府機関を自分の私兵であるかのように使おうとした。小さな政府どころか全体主義的な権力行使を繰り広げたわけだが、他国の独裁者や権威主義的な指導者たちが自分の政権で働く官僚を飼いならしなんなら優遇しているのに対し、トランプはかれらをソーシャルメディアで晒すなどして攻撃し、その多くを地位から追いやった。
トランプの権力行使は、官僚機構への攻撃という点で「非統治」主義と共通しており、環境問題などにおいてはこれまでの「非統治」主義と同じ立場に立っているものの、その目指すところは「非統治」ではなく強権的な「私的統治」であるように見える。実際にトランプは、2024年大統領選挙で当選したら、これまでキャリア官僚が務めてきた連邦政府の無数の職を、政権によって任命される政治的なポジションに変更すると予告している。著者らは「非統治」主義はトランプがはじめたものではないし、トランプがいなくなったとしても民主主義に対する脅威として存続する、とまとめているのだけれど、トランプがもたらしている民主主義への脅威が通常の「非統治」主義とはかなり異なっていることにもう少し注目しても良かったのではないかと思う。