Lina Zeldovich著「The Living Medicine: How a Lifesaving Cure Was Nearly Lost—and Why It Will Rescue Us When Antibiotics Fail」
最近一部で話題のバクテリオファージについての本。著者はソヴィエト連邦出身でアメリカに移住したユダヤ系の反体制派科学者を両親に持つジャーナリストで、研究の中心地だったジョージア(グルジア)やソ連の歴史やソ連からの移民たちの個人史などに触れつつ科学的な話題も丁寧におさえたおもしろい本。
バクテリオファージ(あるいは短くファージ)とは細菌に感染するウイルスのことで、20世紀初頭にヨーロッパで発見された。それぞれのファージは特定の細菌に感染しそれらを破壊するので、細菌感染症に対する対抗策として注目を集めるも、病原菌を特定しないとどのファージが有効なのか分からないのに怪しげな業者によって奇跡の薬のように宣伝されてしまって信頼を失い、また多数の病原菌に対して有効なペニシリンなどの抗生物質が発見されたことで、西側の医学会からは消えていく。その一方で、ソ連のジョージアではスターリンの庇護のもと実用化が進められ、細菌感染症に対する薬としてファージが広くソ連各地に広まったが、ベリア内務大臣に目をつけられ大粛清の対象とされるなどして潰れかける。その後もなんとかほそぼそと研究が続けられたけれども、ソ連崩壊とジョージア独立、そしてロシアによるジョージア内戦への介入などの大事件にも巻き込まれる。政情不安により研究所の電源が失われると、研究者たちがファージのサンプルを自宅に持ち帰って冷蔵庫や冷凍庫で保管したけれども、さすがに危険な細菌のサンプルを研究所の外部に持ち出すことはできずにそれらを失ったことも。
ファージの医療利用が廃れた西側ではペニシリンのあとにも次々と新たな抗生物質が開発されたが、抗生物質は濫用されると細菌が進化により耐性を獲得してしまう。結果、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)のように多数の抗生物質が効かない強力な細菌が生まれてしまった。こうしたメカニズムが判明した以上、まだ耐性が発生していない抗生物質はいざという時の最後の手段として温存されるようになり、結果としてめったに使用されないことから、製薬会社にとっては新たな抗生物質を開発することは利益にならないので、研究自体が行き詰まっている。それに対してファージはそれ自体がDNAやRNAを持ち進化するウイルスなので、病原菌の進化に対応することができる点で、期待が寄せられている。また、ファージはそれぞれ特定の細菌を攻撃するので、目的以外の有益な菌を殺さない点も優れている。
ソ連の末期やその崩壊後に西側に渡った医師や科学者たちが、西側ではファージがすっかり廃れてしまっていたことを知って驚く話はおもしろい。かれらは実際に子どもの頃から病気になったときに経口や点滴によりファージを服用した経験があり、それが有効であることを知っていたが、科学技術においてソ連よりずっと先を行っていると思っていた西側に来てみたらファージの医療利用がそもそも知られていない。冷戦やスターリンの大粛清、ソ連崩壊、内戦やロシアの侵略戦争など、いつ研究所が閉鎖されてもおかしくなかった大事件の数々を経て、ふたたびファージが西側でも注目を集めるところまで来た。
とはいえ、欧米の医薬規制においてはいつどこでも中身が同じで同じ効用が期待できることが薬として認められる条件だったりするので、進化する薬をどう審査・認可するのかなどの問題がある。また、COVID-19の予防のために採用されたmRNAワクチンが「体内で増える、DNAを書き換える」などとデタラメな科学知識とともに陰謀論の対象となってしまった今の世界において、実際に体内で増殖し進化する可能性があるファージをめぐってどのような世論の反発を受けるかいまから心配。とりあえず現状、人体への投与については難しいので、より規制がゆるい食品の殺菌などに採用されているみたいなのだけど、細菌感染に弱くて一時期は年に何回も入院して何度も死にかけたわたしはいろいろ期待してしまう。