Kristin Surak著「The Golden Passport: Global Mobility for Millionaires」
外国からの投資や寄付の見返りとして国籍を与える国の存在とそこに生じる国籍の市場と民間ブローカー、それらの国だけでなく影響を受ける第三国の政府の関与、そして新たな国籍を取得しようとするお金持ちたちについての本。一般の難民や移民は生きるために国境を超えるのにいろいろ苦労してるのにこれだから金持ちはケッ、という気持ちで読み始めたのだけど、期待を超えてめちゃくちゃおもしろい。
誰に国籍を与えるかは大小問わずすべての主権国家の持つ権利で、お金持ちが優遇されるのは最近はじまったことではない。とくにそういった制度がなくても政府が特例で認めれば国に大きく貢献してくれた外国人に市民権を与えるのは昔からあったことで、たとえば最近でもペイパル創業者の一人であるピーター・ティールがニュージーランドから国籍を認められている。しかし香港がイギリスから中国に返還されることになった20世紀末、中国政府の支配下に置かれるまえに外国に移住しようと香港の富裕層の多くが考えていた時期に、カリブ海の小国家セントキッツ(セントクリストファー・ネイヴィス連邦)が国内に一定の投資か政府への寄付をした外国人に国籍を与える制度を作り、それによる収入が国内総生産(GDP)の4割にも及ぶ主要産業になると、カリブ海や太平洋、インド洋のほかの小国家にもそうした制度が広がる。また1990年代以降何度かおきた国際金融危機や気候変動によって激しくなる自然災害の被害が膨らむたびに、IMFや世界銀行からの借金を支払うために国籍販売による収入が当てられるようになる。これに対して欧米先進国のほとんどでは、投資家に対して移民ビザを与える制度はあっても一定額を出せば国籍を与えるような制度はない。
これらの国は人口も面積もせいぜい他国の中都市くらいの規模しかなく、国籍を欲しがっている外国の富裕層に自国の宣伝する手段もなければ、申請者について審査したり申し込み書を処理する人材もないので、民間業者にそれらを委託してその分申請にかかる料金に上乗せすることになる。それらの業者は香港やシンガポール、ドゥバイ、広州、その他世界各地で富裕層に向けた勧誘を行うが、現地で宣伝し申し込みを受付ける係からその内容をチェックして実際に政府に書類を提出する係まで細かく分業が行われ、申請プロセスに長いサプライチェーンが生まれる。また新たな商品(国籍)を求め、そうした業者が各国政府に投資家国籍プログラムを売り込んだりもする。そうして制度を作った国は、パスポートの強さや利点(どの国にビザなしで入国できるか、など)や申請にかかる費用、実際に国に滞在する必要があるかどうかの条件などでお互いに競争し、顧客を取り合う。
セントキッツやその他のカリブ海の小国家の国籍を取る金持ちは、ほとんどはそれらの国に住むことはないし、実際に訪れることも少ない。法的な居住の要件がある国でも家を買えばその要件を満たせることが多く、せいぜいたまにバケーションに訪れるくらい。なぜならそれらの国のパスポートの価値は、国籍を与える国そのものではなく、それらの国の国民が欧米の先進国にビザなしで入国が可能であることに基づいているからだ。しかし収入につられて十分な審査を怠ると欧米やカナダなどからビザなし渡航の特権を国民全体が取り消されたりもするので、これらの国は欧米先進国に目をつけられないように気をつけなければいけない。特にアメリカはこれらの国を経由して本来なら渡航条件が厳しい国の国民が入国してテロなどの犯罪を犯すことを強く懸念しており、それらの国にさまざまな注文をつけている。たとえばトランプ政権がムスリムが多数派の国7カ国からの入国を禁止したとき、セントキッツは速やかにそれらの国の国民による国籍取得を禁止した。
EUにとってカリブ海諸国より問題なのは、シェンゲン協定に参加している29カ国のなかに、キプロスやマルタのように一定額の投資や寄付と引き換えに国籍を与える制度を導入した小国家があることだ。EUではメンバー国の国籍を持つ人はEUの市民権を持ちシェンゲン圏内のどこにでも居住できることになっており、こうした制度はそれらの国だけでなくEU全体に影響を与えるとして、制度を縮小したり審査を厳しくするよう圧力がかけられている。いっぽう、まだシェンゲン協定に参加していないものの加盟を目指していた(当時)ブルガリアやアルバニア、モンテネグロ、マケドニア、モルドヴァなどに対しては参加拒否をちらつかせて制度導入を断念させたり廃止させたりしている。
これまで最も敷居が低く人気だったのはカリブ海の小国家の国籍だったが、トルコが要件を大幅に引き下げた結果、同国の人気が急上昇している。トルコはシェンゲン協定のメンバーではないし、エルドアン政権による独裁傾向が強まりヨーロッパから離れてきているものの、イギリスをはじめとする他国へのビザが取りやすいし、セントキッツなどの小国家と異なり富裕層が実際に快適に生活できる大都市がある大きな国。アメリカの圧力にも屈しないのでアメリカから敵視されている国の国民でも帰化できる。中東出身のビジネスマンらにとっては地理的にも有利だし、中東だけでなくロシア相手のビジネスもできるということで人気らしい。
ほかにも、エジプトやヨルダンの国籍もそれなりに人気があるという。買い手となるのはパレスチナ人やシリア人、イラク人、アフガニスタン人など、無国籍だったり紛争によって自国に戻ることができなかったり自国のパスポートの更新ができなくなってしまった人たちで、ほかの国籍ほど第三国で優遇措置はないものの、少なくとも現状よりはマシだということで買われているという。また、クウェイトやカタールなど産油国で働いているパキスタン人などの外国人労働者のなかには、それなりに出世して財産を築いてもそれらの国では帰化が認めらず、また国籍によって待遇の差別を受けるので、それらの国籍を買うことがある。またヴェトナムでは、外国人投資家を優遇する法制度を利用するためにわざわざカンボジアに帰化するヴェトナム人がいるらしい。
中国やロシアは二重国籍を認めていないが、なにかあったときに国外脱出するために密かに外国の国籍を手に入れておいて、それを隠してビジネスを続ける富裕層が多数いる。実際に、ロシアがウクライナに侵攻した際には国を離れて第三国に出国するロシア人がたくさんいた。単純に、仕事のために世界中を飛び回る必要があるのに、自国のパスポートではいちいちビザを取得するのに時間がかかりすぎるし係官に賄賂を渡さなければいけなかったりして困るので、より簡単に他国に出張することができるパスポートを求めているだけの人もいる。こういう話をいろいろ聞いていくと、一般の難民や移民に比べて金持ちだけズルい、という気持ちはもちろんあるのだけど、それと同時に「別に自分がなにかすごいことをやったわけでもないのに、生まれつき強いパスポートを持っている日本人やアメリカ人のほうがズルい」と思うようになった。
そのアメリカ人も、コロナウイルス・パンデミックの際は多くの国から入国を拒否されて、アメリカのパスポートを持っていることが仇になる経験をした。またアメリカには外国に住んでいるアメリカ人からも税金を取る制度があり、何十年もアメリカに住んでおらず帰国するつもりもない人はどこか適当な国の国籍を得てアメリカ国籍を捨て去ろうとすることも。そもそもアメリカ人旅行者というだけで誘拐されたりテロ攻撃を受けたりする地域もあるので、それらの国を旅行するときはアメリカ人ではなくセントキッツ人やマルタ人として見られたいという動機もあれば、政治的対立が先鋭化した結果、あいつが大統領になるならアメリカ人をやめたい、という人もいる。まあそういう人たちは、生まれつき弱いパスポートを与えられたせいで(あるいは国籍自体与えられなかったか、政府に国籍を保証してくれる実効力がなかったせいで)困っている人たちに比べたら大したことがないし、シリコンバレーの投資家のあいだでは複数のパスポートをコレクションするのがステータスになってたりするのはアホらしいと思うけど。