Kirsty Sedgman著「On Being Unreasonable: Breaking the Rules and Making Things Better」

On Being Unreasonable

Kirsty Sedgman著「On Being Unreasonable: Breaking the Rules and Making Things Better

社会の分断が深刻化し、良識をわきまえた対話の重要性が叫ばれるなか、その良識がどのように生み出されどう機能しているか論じる本。ここで「良識」と表現した言葉は原文では「リーズナブル」で、日本ではおもに商品の価格が妥当であるときに使われるが、英語では合理的な、道理にかなった、筋が通った、などという意味で使われる。

良識とは、はっきりとした規則として定められていなくても人はこう行動すべきだという社会的な要請だ。その多くは個人が自分の快楽や利益のために他者に危害を加えたり迷惑をかけたりすることを防ぐためのもので、社会を成り立たせるために不可欠なものだ。しかし明記されていないがゆえに何が良識であるのか、何がリーズナブルであるのかは人によって意見が分かれることもあり、たとえば飛行機や車両のなかで座席のシートを倒す際に後ろの乗客に断るべきなのかどうかなど、時には激しい議論や対立の原因にもなる。

著者は自身が子どもを出産し育てた経験から、公の場で赤ちゃんに授乳することの是非や、幼い子どもを飛行機やレストランに連れ込むことの是非が(そしてもし子どもに授乳したり飛行機やレストランに連れ込むならどのような配慮をするべきなのかが)「なにがリーズナブルなのか」をめぐる対立として激しい論争にさらされていることに気づく。しかしその論争は「なにがリーズナブルなのか」をめぐる両論が対等な議論のようでありながら、もし一方の主張が認められたら女性の社会参加が大幅に制限されるという結果をもたらすという意味で、女性の社会的地位を脅かしかねない非対称的な議論だ。

法律のうえでも、ある行為が法で禁止された行為かどうか判断するうえで「リーズナブルな人」がどう感じるか、という基準がよく参照される。この「リーズナブルな人」は法律上のフィクションであり性別や人種などの社会的属性を持たないが、歴史的にも現実的にも社会で力を持つ白人・男性・中流か上流階級etc.の人たちが考える「リーズナブル」さが反映される。障害者たちが自分たちの社会参加に必要な「合理的な(リーズナブルな)配慮」を求めて訴えるとき、その判断の基準となるのは「健常者の社会にとって」なにがリーズナブルかであり、また性暴力の被害を受けた人たち(大多数は女性)の証言が信用できるかどうかも「男性の視点から見て」その証言がリーズナブルかどうかによって判断されてきた。黒人に対する警察の暴力がたびたび問題とされるなか、ほとんどのケースにおいて警察による暴力は「合理的な力(リーズナブル・フォース)の行使」であると、そうした暴力の対象とはならない判事や陪審員らによって判断される。

著者が住む英国ブリストルでは2020年、ブラック・ライヴズ・マター運動の参加者たちによって、17世紀の商人・政治家エドワード・コルストン銅像が倒された。コルストンは奴隷商人として築いた財産を多数の学校や公共施設に寄付し、地元の名士として像が建てられたが、奴隷とされたアフリカ人たちの子孫らによって像を撤去する運動が長年続けられていた。2020年に像がデモ参加者たちによって倒され、海に投棄されると、多くのコメンテータがかれらの行為はアンリーズナブル(リーズナブルではない)だと批判した。像を撤去するなら署名を集めるなりして合法的な運動によって議論を通して行うべきで、勝手に倒すのはリーズナブルではない、と。しかし実際にそうした運動は2020年より前から続けられており、一度はリーズナブルな妥協案として像に併置されたパネルに奴隷貿易について明記するという案が採用されたのに反対派によって反故にされるなどの経緯があった。「リーズナブルであれ」という要請は、奴隷貿易の利益を受けた人たちの末裔である現在のブリストルの有力者たちによって、その被害を受けた人たちの子孫の声を押しつぶし、現状を維持することにしかならなかった。

ブラック・ライヴズ・マター運動自体についても、一部で警察と衝突したり、デモが交通を妨害するなどの出来事により、あるいは警察廃止といった一見過激な主張により、アンリーズナブルな運動だ、という非難が殺到した。だったらどのように人種差別に抗議すればリーズナブルだというのか?NFLのコリン・キャパニック選手が静かに膝をついて抗議したとき、まったく同じ人たちがかれの行為をアンリーズナブルだ非難していたように、どのような行為であれ、それが周囲の人たちを困惑させたり不快にさせることがあれば、それはすぐさま「アンリーズナブル」として否定される。かれらが求める「リーズナブルな」抗議とは、誰の目にも触れず、誰も困惑させたり不快に思わせない行為、すなわち世の中に何の影響も与えず、自己満足にしかならない行為だ。一方そうした運動が起きるそもそもの原因である警察の暴力は「リーズナブルな力の行使」として温存される。

ブッシュ43rd政権の国務長官ドナルド・ラムズフェルドは「知られていると知られていることがある」に始まる迷言で記憶されているが、著者はこの構図にならって「リーズナブル」とされることのリーズナブルさを論じる。多くの人はある行為の道徳的な分類としてリーズナブルであるかそうではないかで判断するが、そうした判断自体がリーズナブルなのかどうかを加えると4種類の分類が生まれる。それが、社会を成り立たせるのに必要な暗黙の了解すなわち「リーズナブルなリーズナブル」および社会や他者に対する危害となる「アンリーズナブルなアンリーズナブル」に加え、法や良識に反するとされるけれども正当性のある行動である「リーズナブルなアンリーズナブル」と、正当性がないにも関わらず法や良識として押し付けられる「アンリーズナブルなリーズナブル」だ。

このなかでわたしたちが特に注目すべきなのは、一見合理的で穏健に見える「アンリーズナブルなリーズナブル」だと著者は主張する。なぜならそれは、道徳的優位を自称し社会的不公正に抵抗する側をアンリーズナブルだと決めつけることで、社会的強者の利益を守り、差別や格差を温存するために動員されるものだからだ。そうした制度に守られた不公正に対抗するためにこそ、「リーズナブルなアンリーズナブル」な行動が重要となる。