David Allen著「Every Citizen a Statesman: The Dream of a Democratic Foreign Policy in the American Century」

Every Citizen a Statesman

David Allen著「Every Citizen a Statesman: The Dream of a Democratic Foreign Policy in the American Century

1920年代に生まれ、全国に広まり、そして失速した、アメリカ国民に必要な外交知識を啓蒙することで民主主義に基づいた外交政策を推進しようとした運動の歴史についての本。先にウッドロウ・ウィルソン大統領とファーストレディのエディス・ウィルソンについての本(Rebecca Boggs Roberts著「Untold Power: The Fascinating Rise and Complex Legacy of First Lady Edith Wilson」)を読み、関係してそうだと思ったので続けて読んだ。

(第一次)世界大戦の終結に際し、ウィルソン大統領は講和条約の締結と今後同じような大戦争を防ぐための国際的な仕組みとしての国際連盟の創設に尽力したけれども、「Untold Power」に書かれた事情などもあり国内では議会の支持を得られず、国際連盟はアメリカが加盟しないまま発足することに。しかしウィルソン大統領の国際主義を支持する政治家・研究者や外交専門家らはアメリカが孤立主義に回帰するのではなく国際的な仕組みのなかで世界平和の維持のために貢献することを願い、国民が国際問題について民主主義を通して意見を表明し実現させるためのムーブメントをはじめた。かれらは政府の外に設立したシンクタンクにおいて国際問題や外交政策について研究するとともに、それらについて一般市民を啓蒙し、人々が政府や政治家に意見を届けるための仕組みを作ろうとした。

こうした動きのなかには、ウィルソン大統領の外交ブレーンだった専門家たちが1921年に設立した外交問題評議会(現在も存続し影響力のある外交誌『フォーリン・アフェアーズ』を出版している)のような既存の白人男性エリートの組織もあったが、より草の根的なグループとして1918年に設立された外交政策協会などの組織も全国に生まれた。後者のグループには白人女性の研究者や活動家が多く所属したが、これには当時、経済的に恵まれた家庭に生まれた白人女性には大学・大学院進学の機会が広がりつつあったが、せっかく卒業しても大学や政府の職につくのが難しく、彼女たちが活躍の場を求めてこれらのグループでリーダーとなったこととともに、1918年に第一次世界大戦が終結したあとの平和活動家や1920年に憲法修正19条成立により女性参政権が認められたあとの女性参政権活動家らが合流したことが影響していた。

民主主義に基づいた外交政策を推進しようとする運動は、それぞれの団体や地域によってさまざまな展開を見せた。とくに東部の大都市では地域のエリート層を集めた食事会でさまざまな立場の専門家の講義や討論を聞くという形をとることが多かったが、そうした専門家が少ない地方では記事やパンフレットを読んで会員同士で外交政策について勉強したり議論する、という形が取られた。また外交政策協会などの組織はそうした会合に使うためのパンフレットを提供した。これらの活動は基本的に白人を対象として行われ、黒人やその他の非白人が市民として政策決定に参加することはそもそも考慮すらされていないことが多かったが、白人限定とはいえかれらは市民に十分な知識を与えることで民主主義を通した外交政策の決定が可能だと信じていた。

こうした考えがエリートたちに受け入れられたのは、当時は第一次世界大戦の直後でヨーロッパが疲弊しており、いっぽうアメリカが世界一の大国としてのし上がった時期だったこともあり、民衆が外交政策に口を出しても特に大きな危険はないと考えられていたことが大きい。ところがヨーロッパでナチス・ドイツが周辺諸国に侵略をはじめると、ルーズヴェルト政権をはじめ外交関係者らは海外で情報戦に携わっていた人たちを「民主主義に基づいた外交政策推進」の現場に動員し、啓蒙活動という体で一般市民を第二次世界大戦への参戦を支持するよう誘導しようとする。

さらに第二次世界大戦後、アメリカはソ連との冷戦に突入、核の脅威が意識され、外交政策は情報を伏せたうえで極秘に議論される必要があり一般市民が外交に口を出すことは危険だという意識が外交関係者らのあいだで広がる。ついでにマッカーシー議員が扇動した「赤狩り」は一般市民による自由な議論を萎縮させ、草の根運動へのフォード財団などからの資金提供は停止されていく。そののちヴェトナム戦争をめぐって国の外交政策に対して人々が抱いていた基本的な信頼が壊され、さらに新しい世代の女性活動家たちも外交問題から関心を移した結果、広く一般市民の外交政策参加を促そうとした運動は終焉していく。運動の中心となった外交政策協会や1918年設立のアメリカ世界情勢協議会などの団体は現在まで存続しているものの、それらはもともと外交問題に興味があるごく一部の人たちだけのものとなってしまい、本来それらの団体が打破しようとしていた「外交政策のエリート独占」を体現するようになってしまう。

この本によると、オレゴン州では外交政策協会の支部の活動が活発で人々が集まって外交問題について議論するプログラムを作って全国に広めたということが書かれていたんだけど、「あー、あれがそうか!」と思い当たることがあった。少なくとも20年くらい前の話なんだけど、一度だけ呼ばれて行ったけど、そういえばそういうのやってたよ!と。まあそもそもアメリカの民主主義自体めっちゃやばい状態なんで、中でも特に一般人が関わりにくい外交問題について一般市民が(政府やメディアによる誘導ではなく)主体的に参加するという状況が想像できないのだけれど、いまから100年も前にそういう理想が大々的に追求された、というのはおもしろかった。