Abdu Murray著「Fake ID: How Ai and Identity Ideology Are Collapsing Reality—and What to Do About It」

Fake ID

Abdu Murray著「Fake Id: How Ai and Identity Ideology Are Collapsing Reality—and What to Do About It

キリスト教の護教論の本をいくつか出版してきた著者が、キリスト教徒としての立場から人工知能(AI)および(トランス)ジェンダー・イデオロギーがそれぞれの側面から客観的事実を否認し消し去ろうとしているか論じる本。

これまでにもわたしはRiley Gaines著「Swimming Against the Current: Fighting for Common Sense in a World That’s Lost its Mind」をはじめAbigail Shrier著「Bad Therapy: Why the Kids Aren’t Growing Up」やLisa Vogel著「We Can Live Like This: A Memoir of a Culture」など反トランス的な本や反トランス的な著者による本も紹介してきたけど、それらは社会への影響力や反トランス言説・運動を理解するうえで有用と思って読んだのに対し、大して影響もなさそうな本書に関してはそんな言い訳も立たず。反AIと反トランスをどう繋げるんだろうという個人的な好奇心だけで読んでしまいました。ごめん。

まあ、LLMを採用した最近のAIチャットボットはただの統計的予測だけで何の根拠もないことをいかにもそれっぽく出力するし、ディープフェイクによる架空の画像や動画の生成は本物と見分けがつかないところまできており、トランスジェンダーの人たちが社会的に受け入れられはじめたことを「何の根拠もない性自認という妄想がまるで事実であるかのように広まっている」という危惧を抱く人にとっては共通性を感じるのは分かる。しかし著者がトランスジェンダーに関する客観的な事実として提示するのは、キャス報告だったりROGD(急速発症性性別違和)説だったりと、ごく控えめに言っても客観的事実として確立したとは言い難いソースを元にしており、ジェンダー移行が性別違和を訴える子どもの幸福や自殺予防に繋がらない根拠として性別違和のある子どもの典型例とはかけ離れ経緯のあるデイヴィッド・ライマー氏(『ブレンダと呼ばれた少年』に描かれた、男児として生まれたが医療事故によりペニスを失い女の子として育てられたのち男性に再移行した人)の自殺まで援用しているあたり、事実認定の基準がむちゃくちゃ。キャス報告やROGD説に対する学術的な批判や反論を「客観的事実を認めようとしない原理主義者たちが言論の自由を抑圧しようとしている」とか言うし。

AIについての部分は納得がいくかというと、まあ納得がいくことも書かれていないことはないんだけれど、たとえば画像生成AIが「囚人の画像」を求められて大多数が黒人の画像を作ってしまう問題と、生成された「ヴァイキングの画像」に黒人が含まれてしまう問題を並列に取り上げてしまっており、前者は学習データの偏りによる問題であり、後者はその対策としてAIシステムが雑にパラメータを補正した結果生じた問題であることを区別しないなど、粗い部分も多々。そこからAIをトランスヒューマニズムに結びつけ、さらにはたまたまトランスヒューマニストでもあるトランスジェンダー当事者の発言を引用したり。創世記の神話やイエスの復活、人格を持つ神の実存などを証拠に基づいた客観的事実だと言いだすあたりは、もう客観的事実という言葉の意味が分からなくなりそう。キリスト教者として機械的な脳の理解やトランスヒューマニズムに疑問を抱くのは真っ当だと思うんだけど、善悪の基準の存在や第一原因論などからキリスト教の信仰を擁護するあたりとかも、過去のさまざまな議論の蓄積がまったく参照されていない。

著者は性別違和については共感できないと言いつつ、イスラム教徒の家庭で育てられ、のちにキリスト教に改宗した経緯から、周囲から当たり前のものとして押し付けられたことを否定し、客観的に真実だと認める信仰(キリスト教)を選び取るまでに経験した葛藤や、自分のなかで折り合いをつけようとしてイスラム教とキリスト教を両立させようとしたがうまくいかなかった話などを語る。というと、著者は男の子として育てられたトランス女性や女の子として育てられたトランス男性が周囲の押し付けに苦しみ、葛藤したり折り合いをつけようとして苦労したけれども、どうしても自分にとっての真実を押し消すことができなくてトランスジェンダーとしてカミングアウトして生きた経験を自身の信仰をめぐる経験になぞらえているように聞こえると思うのだけれど、著者が言わんとするのはまったくその逆。トランス女性にとっての真実とは自分が男性であることであり、その真実を捨て去りトランスジェンダーとして生きるよう社会から圧力を受けている、彼ら・彼女たちがそうした圧力を跳ね除け真実が指し示すとおりに生きることができるように支援すべきだ、と著者は言いたいらしい。あらかじめ決めつけた結論に向けて無理やり論理を捻じ曲げて逆転させてない?

ちなみに、バイデン大統領によって最高裁判事に任命されたケタンジ・ブラウン・ジャクソン氏が共和党議員によって「女性の定義は?」と詰問された際、「わたしは生物学者ではないから答えられない」と答えたことに対して著者が「てことはジャクソン判事は性別は生物学的に規定されると言っているのでは」と指摘する部分とか、マルコム・グラッドウェルが過去にトランス女性アスリートによる女性スポーツへの参加を擁護していたことを昨年撤回して「社会的なプレッシャーで参加に疑問を呈することができなかった」と言い訳したのに対して「いやいや考えが変わったというならともかく、当時保身のためにウソをついてたんだとしたら酷くない?」と批判する部分などは、逆の立場からもまったくそのとおりだと思った。