
Justin Driver著「The Fall of Affirmative Action: Race, the Supreme Court, and the Future of Higher Education」
大学入学審査において志願者の人種を考慮に入れたアファーマティヴ・アクションに終止符を打った2023年の最高裁判決の影響についての本。
過去の判例を覆し大学によるアファーマティヴ・アクションを違憲とする判断を下した2023年のStudents for Fair Admissions v. Harvard (SFFA)判決は、同じく50年近い過去の判例を破棄して妊娠中絶の権利を否定した2022年のDobbs判決と並び、司法を支配しようとする保守派による長年にわたる運動の成果であり、トランプ政権下で急激に右傾化した最高裁の象徴の一つ。過去の判例でも人種別の割り当て制や人種によって機械的に点数を追加する方式のアファーマティヴ・アクションは否定されていたものの、大学が学内でのダイバーシティ(多様性)を追求することには自由裁量が認められ、そのためにほかのさまざまな要素とともに志願者の人種を考慮に入れることは認められていたが、SFFA判決では人種を考慮に含めること自体が憲法修正14条における「法の下の平等」原則に反するとされた。
理論的には、人種による異なる理不尽な扱いをなくすためには一切の異なる扱いを認めるべきではないと考える保守と、現実に人種によって異なる扱いを受けていることを見つめてそれを是正するための行動(アファーマティヴ・アクション)を取るべきだと考えるリベラルのあいだで憲法修正14条の解釈の違いがあるが、さらに保守派はアファーマティヴ・アクションを廃止すべきだとするいくつかのもっともらしい理由を挙げる。それはたとえば、アファーマティヴ・アクションの存在はなんらかの成功をおさめた黒人たちに対して「どうせアファーマティヴ・アクションの恩恵を受けただけで本人の能力は劣っている」という偏見の目が向けられる理由となるというものだったり、黒人というだけで恩恵を受けられるのであれば結局黒人の中でも弁護士や医者など成功者の親を持つ恵まれた環境に育った学生たちに有利となるだけだとか、自分の能力に見合わない大学に入学しても周囲に溶け込めずかえってかれらの人生を傷つけるだけだ、あるいはアファーマティヴ・アクションの存在は人々に人種的アイデンティティを過剰に意識させ社会の分断を招くというものだったりする。
カリフォルニア州をはじめいくつもの州で何十年も前からすでに大学入学審査におけるアファーマティヴ・アクションが廃止されているにも関わらず未だに黒人たちが「アファーマティヴ・アクションの恩恵を受けただけの無能な連中」と揶揄されていることからして、アファーマティヴ・アクションは人種的偏見の原因ではないしアファーマティヴ・アクションを廃止したところで偏見が解消されることがないことは明らかだけれど、それ以外の主張についても著者はさらにSFFA判決は保守が指摘するアファーマティヴ・アクションの弊害をさらに悪化させることに繋がると指摘する。というのも、SFFA判決では人種そのものを考慮に入れることは禁止されるが、志願者個人のエッセイの中で自分がどのように差別を経験してそれを乗り越えてきたか個人史のエピソードとして語ることは認められており、黒人やラティーノの志願者にとってはそうしたエッセイを書くことが「志願者の人種そのものを考慮することはできないけれど、しかし多様性は維持したい」大学当局に受け入れられ入学を認められるために有効な戦略となるから。
以前ならば黒人の志願者は入学願書の人種の項目にチェックを入れるだけで自分が黒人であると示すことができたけれど、SFFA以後の入学審査ではエッセイの中で自分の研究したいトピックやその他の趣味嗜好や人生経験ではなく人種に関わることをことさら書かなければ黒人学生の急減を避けたい大学にアピールできない。そうしたエッセイを書くことは志願者たちに以前よりさらに人種的アイデンティティと被差別の経験を意識させることになるだけでなく、周囲に大卒者も少なく進学のアドバイスももらえない貧しいコミュニティに住む黒人の子どもに比べて、どのようにエッセイを書けばいいのかアドバイスを受けられる恵まれた環境に育った黒人たちがより有利となる。つまり保守派がアファーマティヴ・アクションの弊害としてこれまで訴えてきたことは、SFFA判決によってさらに深刻化してしまう。
いっぽうリベラル派はアファーマティヴ・アクションの禁止により黒人の大学進学が後退し、その結果将来何十年にもわたって社会をリードする指導者層における黒人の比率が今より低下することを懸念しているが、SFFA判決の影響は多大だとはいえ人種に基づかずに多様性を確保するための試行錯誤は既にアファーマティヴ・アクションが廃止された州においていくつも実践されている。たとえば州内のどの高校であれその中でトップクラスの成績をおさめた生徒に州立大学への進学を認めたテキサス州の制度が代表的だが、黒人学生の減少を防ぐために有効だと考えられるのは、「過去の奴隷制度において奴隷として扱われた人たちの子孫」に優先的に機会を与える制度。アメリカの伝統的なエリート大学自体、奴隷制度の利益によって設立・維持されてきたものが多いので理屈としても合っているし、「奴隸として扱われた人の子孫」は人種的なカテゴリではないため合憲(だとしないと、憲法修正14条を成立させた当時の政治家たちが同時に「解放された元奴隷たち」を支援するための制度を設立したこととの整合性が取れない、と保守派法律家たちも認めている)。また、「アメリカ先住民」に対する優遇は人種を理由としているため違憲だとしても、全国に大学を設置するために土地を奪われた「先住民国家の市民権を持つ人たち」に対する優先は憲法上認められるとされる。
20世紀以降にアメリカに来たアフリカ系移民やその子孫も現代アメリカで差別を受けているのにかれらへの配慮はないのかとか、元奴隷の子孫だとどうやって証明するのか、先住民国家の市民権を持っていてもアメリカ政府がその先住民国家を認めていなかったり、歴史的経緯によって市民権を失ってしまった人はどうするのか、などといった問題はあるが、そうした曖昧さは志願者が願書の人種の欄に記入していたSFFA以前から続く問題であり、新たな問題ではない。しかし人種を考慮に入れるアファーマティヴ・アクションには50年にわたる歴史があり、どのように、どの程度考慮に入れるべきなのか、それが本人の成功とキャンパスの環境にどのような影響があるのか、という経験の蓄積があったのに、それが全て失われてまたはじめからやり直し、というのはなかなか厳しい。うまい具合にバランスを取れるようになるまで混乱は続く。
さらに第二次トランプ政権に入り、SFFA判決時点では予想もされなかったかたちでSFFA判決の論理が政権によって濫用されるようになっている。SFFAは入学審査の手順についてのごく限られた判決だったのに、トランプ政権はそれを大学だけでなく企業を含めあらゆるアファーマティヴ・アクションやDEI施策に対する禁止令だと拡大解釈し教育やビジネスへの統制を強めており、またそのいっぽうで学生によるパレスチナへの連帯運動を弾圧する口実として「反ユダヤ主義」という言葉を使ったり、女性の権利を口実にトランスジェンダーの生徒や学生の存在を抹消しようとしている。これはアファーマティヴ・アクションに反対してきた従来の保守派の論理からも逸脱した状態だが、その意味でSFFA判決はその実際の内容をはるかに超えた影響をもたらしている。そう思うと、いや丁寧にSFFAの内容を議論している場合じゃないでしょ、とも思うんだけど、ちゃんとした整理は必要なのでその点は良かった。