Sarah Schulman著「The Fantasy and Necessity of Solidarity」
レズビアンの作家・活動家・思想家であり、イスラエル政府によるパレスチナ占拠とアパルトヘイト政策に反対する最も著名なユダヤ系アメリカ人知識人の一人でもあるサラ・シュルマンの新作。ガザにおけるジェノサイドが全世界の眼の前で進行する中、連帯のあり方について論じる内容。
レズビアンコミュニティを舞台にした小説や演劇作家として活動するとともに、1980年代にニューヨークのクィアコミュニティでHIV/AIDS危機を経験しACT-UPに参加(前著「Let the Record Show: A Political History of ACT UP New York, 1987-1993」参照)、エイズを発症し亡くなっていくゲイ男性たちの世話をしていたレズビアンたちが不可視化されていることへの対抗としてダイク・マーチ(無許可のデモ行進)やレズビアン・アヴェンジャーズ(直接行動団体)の発足に関わるなど政治的にも長年ニューヨークのクィアコミュニティの中心にいた著者が、イスラエル・パレスチナ問題について意識したのはかなり後になってからだった。
ホロコーストで多くの親戚を亡くし、辛うじてニューヨークに逃れてきたユダヤ系難民の家庭に生まれ育った彼女は、家族が毎年笑顔でイスラエル国旗を振りながら祝っていたイスラエルの建国記念日が、パレスチナ人にとっては社会の破壊と故郷からの追放が起きたナクバの日であることから長らく目を逸らしてきた。しかし2009年、彼女はついに正面から事実に向き合う覚悟を決め、それまで避けてきた文献や証言を学び、ユダヤ系レズビアンとしてパレスチナへの連帯を表明していく(このあたりは2012年の「Israel/Palestine and the Queer International」に詳しい)。
本書が扱う「連帯」は、労働組合のように同じ立場におかれた人たちがその共通点を通して団結するという意味ではなく、自分は直接被害を受けていないのに、あるいは自分はむしろ消極的ながら(たとえばアメリカ市民が払う税金がイスラエルへの軍事支援となりパレスチナ人に対して使われるといった形で)加害者の側に立っていたりするのに、そして被害者を支援してもかれらは直接なんの見返りも与えてくれないばかりかリスクばかりあるのに、それでも自分とは異なる、暴力や抑圧の被害を受けている他者に寄り添う姿勢のことを指す。別の表現だと支援者やアライといった言葉で呼ばれるものだ。
こうした連帯は、不平等を前提としている。支援をする側はいつでも支援をやめることができるし、どこの誰を支援するか、どれだけ支援するか、どこまでのコストやリスクを許容するか自由に選ぶことができる一方、支援を受ける側は逃れたくても暴力や抑圧から逃れられない。そういう不平等な関係において、両者はともに、自分の介入によって問題を解決する、あるいは誰かが介入してくれさえすれば問題は解決するという、それぞれの幻想を抱いてしまう。しかし現実の闘争はそう単純ではなく、長期にわたるめんどうな交渉や働きかけや、漸進的な進展を必要とする。
本書はスペインのフランコ政権末期から民主化の時期に南フランスに設立されたスペイン人女性のための妊娠中絶クリニックや、ACT-UPが取った戦略、パレスチナ社会が呼びかけるBDS(ボイコット、投資撤収、制裁)運動とそれに呼応したアーティストや学生たちの運動などさまざまな例を挙げながら、連帯とはなにか、連帯を表明することで攻撃されたり仕事を奪われるときどうやって勇気を出すか、と論じていく。最後には大学でライティングを教えていた著者の元生徒で友人となったトランス女性の告別式で著者が読み上げ物議を醸したACT-UP流の政治的弔辞とそれについての対話が収録され、著者があいかわらずアメリカのクィア・コミュニティを代表する知識人の一人であると確認できる。
内容的には活動家たちのあいだでの対立について書かれた2016年の問題作「Conflict Is Not Abuse: Overstating Harm, Community Responsibility, and the Duty of Repair」の系統だけれど、「Conflict Is Not Abuse」は著者の意図と離れおかしな使われ方をした(まあ脇が甘かったのは事実で、そのせいで本自体まで叩かれた)のに対して、本書はストレートで誤解しにくい。BDS運動を支持しながらパレスチナとの直接の繋がりを持たず過去の運動における議論の蓄積を知らない人が「〜もボイコットしろ」と押し付けてきたり、大学当局と投資撤収について交渉している学生たちに「要求が生ぬるすぎる」と批判してきたりとか、たしかにありがちで、連帯が本質的に不平等で一方的なものであることを踏まえつつ、その弊害に意識的になりできるだけ抑制するということは本当に必要。この紹介では内容を全然カバーできてないので、英語読める人は読んで。