Matthew J. Cull著「What Gender Should Be」

What Gender Should Be

Matthew J. Cull著「What Gender Should Be

フェミニズムやトランスジェンダー運動を補佐するためにジェンダーをどうコンセプチュアライズ(概念化)するか考察するとともに、左派・右派それぞれの立場から来るジェンダー廃止主義に対抗しジェンダー多元主義を訴える本。著者はアジェンダーの(特定のジェンダーを自認しない)分析哲学者。

哲学の本にありがちだけれど、序盤は概念化や概念工学の話をするために「そもそも概念とはなにか?」から議論をはじめるといった具合にスロースタートだけど、ジェンダー廃止主義の検証に入るあたりから加速しておもしろくなる。ジェンダー廃止主義と一言で言ってもいろいろなパターンがあり、イタリアのゲイ理論家マリオ・ミエリからアメリカの黒人ゲイ作家ジェームズ・ボルドウィン、そしてラディカルフェミニズムの理論家シュラミス・ファイアストーンに連なるラディカルなジェンダー解体論から、宗教右派が主張するようなジェンダーと呼ばれる社会的表象は存在せずすべて身体的性差に基づくものであるというジェンダー否定論までかなりの幅があり、この曖昧さがトランスジェンダーの存在を否定したいがために後者と共闘して身体的性差の優越性を唱える奇妙な「ジェンダー・クリティカル」を名乗るフェミニズムのようなものが生じる余地となっている。

現在、アメリカの社会運動や社会科学・人文学で「廃止主義」と言うと、それは監獄廃止主義のことを指すことが多い。これはもともと「廃止主義」という言葉が指していた奴隷制廃止運動の伝統を受け継いでおり、奴隷制が廃止されたあと、それが白人至上主義的な警察や司法、刑務所によって取ってかわられたという理解に基づいたものだが、「Abolish the Family: A Manifesto for Care and Liberation」のSophie Lewis氏や「Family Abolition: Capitalism and the Communizing of Care」のM.E. O’Brien氏のように警察や監獄だけでなく同じように白人至上主義によって形作られた資本主義や家族制度の廃止を訴える論者もいる。

しかし、同じ「廃止論」という言葉が使われていても、かれらが考える監獄の「廃止」と家族の「廃止」では意味が異なる。監獄「廃止論」は文字通り刑務所や刑事司法制度そのものの破壊するため、そうした制度を必要としない社会を構築することを提唱する立場だが、家族「廃止論」を主張する論者たちも実際に多くの人々の生活と実存の支えとなっている家族を破壊することは目論んでいない。家族廃止論者たちが目指しているのは、家族という形態が負っている(そしてその中で特に女性が負っている)重すぎる社会的責務を減らし、また人々が家族に拘束され依存せずとも必要なケアが受けられるようにすることであり、O’Brien氏も認めるとおり、これは家族の廃止ではなくむしろ多様な家族のあり方への支援でありその抑圧的な側面の是正という言い方もできる。ていうか少なくとも短期的にはそう呼んだほうが政治的なウケもいいし成功する可能性も高いくらい。一部の論者が言うジェンダー廃止論も同様に、多様なジェンダーのあり方を支えその抑圧的な側面を是正するという著者の主張と合致した意味である場合もある。しかし同時に、ジェンダー廃止という言葉で女性や性的マイノリティに抑圧的な家父長制的な性役割を押し付ける生物学的決定論を意図する宗教右派や、トランスジェンダーの人たちの存在を否定する「ジェンダー・クリティカル」な論者などとの混同を避け、また監獄廃止論に対する世間の理解をブレさせないためにも、ジェンダー廃止という言葉は避けたほうが良いと著者は考える。

本書にはほかにもいくつも注目すべき議論が展開されていて、この説明だけでは伝えきれてない。Perry Zurn, Andrea J. Pitts, Talia Mae Bettcher, & PJ DiPietro編著「Trans Philosophy」も出たし、今後もトランス哲学者たちの出版ラッシュが来る様子で、最近トランスジェンダー哲学のブームが来ている気がする。