Justene Hill Edwards著「Savings and Trust: The Rise and Betrayal of the Freedman’s Bank」
南北戦争後に奴隷制から解放された黒人たち(フリードマン)の資産形成を支援するために設立され、リコンストラクションの終焉とともに閉鎖に追い込まれたフリードマンズ貯蓄信用、通称フリードマンズ銀行についての本。
フリードマンズ銀行の起源は南北戦争中に遡る。南部の反乱の鎮圧に動いた連邦軍(北軍)は自由人の黒人の部隊を結成するとともに南部の黒人たちにも自由と引き換えに参戦を呼びかけ、多くの人たちが奴隷解放を求め従軍するが、かれらは軍から支払われた賃金を安全に貯金する手段がなかった。一部の人たちは白人の指揮官にお金を預けるなどしたが、そうしたニーズに応えるために一部の部隊ではかれらの入金を受け付ける貯蓄銀行も設置した。内戦終結後、自由人として賃金を得るようになった解放奴隷たちもそうした金融機関を必要としたが、特に南部では白人の銀行はかれらを相手にしなかったので、信頼できる相手にお金を預けたり、家のどこかに隠したりしていたが、裏切られたり盗みに入られて全財産を失う人も少なくなかった。
いっぽう奴隷解放に尽力した北部の白人たちは、それまで奴隷として生きてきた黒人たちがいきなりお金を手にしても碌なことにはならないと考え、かれらに金融の知識と貯蓄の習慣を教えなければいけないというパターナリスティックな発想に取り憑かれていた。実際のところ、黒人たちは奴隷だったころから仕事のあいまに工作した品物を路上で売るなどしてお金を貯める大切さは知っていたし、自分や自分の家族が資産として売買され担保として銀行に取られたりもした経験から多くの白人以上に金融の知識はあったのだけれど、北部の白人たちはそのことにも気づかないまま、白人だけの理事会によって「善意から」フリードマンズ銀行を設立、黒人たちに貯蓄を推奨した。
フリードマンズ銀行のあり方は連邦法で規定され、黒人から受け取った預金は米国債などの安全な資産で運用すること、一定の利子をつけることなどが決められていた。しかしその設立に関わった人たちは善意の慈善家が多く金融機関を運営する知識も経験もなかったため、やみくもに支店を増やしたり首都ワシントンの財務省のすぐそばに豪華な本社を建設したりと無茶な経営を行い、損失を出した。それでもなんとか運営できていたのは黒人たちからの入金が増え続けたからだが、そこにも白人たちの誤算があった。かれらは黒人たちが預金したお金を長期的に口座に入れたまま利子を得て資産を増やすと想定していたのだが、当然のことながら黒人たちは必要に応じて日常的にお金を出し入れできる銀行口座としてフリードマンズ銀行を使った。かれらはフリードマンズ銀行をそこまで信用していなかったし、口座の金額が増えるのをただ見ているよりは小さくても土地を買って畑を耕し自分の労働で金銭を得ることを望んだ。
黒人たちが預金を引き出さないことを前提に経営をしていたフリードマンズ銀行が先行かなくなるのは当たり前。さらに慈善家たちがギブアップしてワシントンDCに影響力を持つビジネスリーダーたちがその舵を握ると、自分や自分と関係のある人たちに黒人たちの預金を勝手に貸し出し、期限が来ても返金を求めないといった不正融資や横領が行われるようになる。議会にもロビー活動を行い正式にリスキーな投資活動を認めさせると状況はさらに悪化、融資のほとんどが理事たちとつながりがある白人たちに垂れ流され、終盤には融資額の95%が返ってこないほどに。さらにあくどいことに、ついにもう潰れそうとなったとき、元逃亡奴隷で奴隷解放活動家として著名なフレドリック・ダグラスを説得して理事長に迎えたが、かれが就任したときにはすでに銀行が倒産間近だったことは隠されていた。さらにダグラスは講演や執筆でかなりの資産を築いていたが、かれを説得し多額のお金を預金させた一方、白人の理事たちは融資を受けるだけで一切預金をしようとはしなかった。数カ月後、フリードマンズ銀行が倒産すると、ダグラスは腐敗と不正の責任者として矢面に立たされ、南部の白人たちによって「これだから黒人に経営は無理だ」として宣伝された。
フリードマンズ銀行がたった10年にも満たないあいだに黒人たちから絶大な期待をかけられ、あるいはほかに頼れる金融機関がないからと縋りつかれ、多くの資金を集めながら、せっかく自分の労働の対価を自分で受け取れるようになったかれらのお金を白人たちにだまし取られその責任まで負わされたフリードマンズ銀行の歴史は、差別的な住居政策や搾取的なサブプライムローンなどで財産を奪い取られた以降の金融史と重なる。ひどすぎてため息しか出ない。