Joshua Bennett著「Spoken Word: A Cultural History」

Spoken Word

Joshua Bennett著「Spoken Word: A Cultural History

ホワイトハウスに招かれてオバマ大統領の前でパフォーマンスしたこともある黒人男性のスポークンワード詩人が書いた、スポークンワード・ポエトリーの文化史。

本書の中心は三部構成。第一部は1970年代にニューヨークのプエルトリコ系の詩人たちが集まって立ち上げ、その他のラティーノや黒人などさまざまなアーティストが参加したニューヨリカン・ポエッツ・カフェとその周辺のコミュニティの歴史。単なる詩の朗読ではなくヒップホップの影響を受けたスポークンワード・ポエトリーというパフォーマンスアートの分野の現代的な展開がここから始まった。

第二部はシカゴのラウンジからスポークンワードに競技性を持ち込んだポエトリー・スラムが1980年代に生まれ全国に広まった歴史について。会場に来ている一般客から審査員を選び点数を付けて競わせトーナメントをするという形態は、文学としての詩を信奉する人たちからは反発されたけれども、スラムによってスポークンワードは爆発的な人気を集め、テレビ番組としても放映された。

そして最後の第三部は、スポークンワードが若者の文化活動として定着し一部の人気パフォーマーたちがスターになった一方、一時のブームが終わり一般の大人の文化としては退潮していたところにコロナウイルス・パンデミックが起きて生のパフォーマンスやスラム競技が一斉に閉鎖されるなか、インターネット上の動画サイトや動画系ソーシャルメディアなどに活動の場を見出したアーティストたちについて。

実はわたし自身も一時期スポークンワードにハマっていて、ヘタレだから競技には参加したことがないけど、自分でも「ジェンダーとセクシュアリティ」をテーマとしたスポークンワード・ポエトリーのイベントを毎月主宰したり、あとほかの人がやっているイベントにゲストパフォーマーとして招待されたりしてたくらい。ちなみにニューヨリカン・ポエッツ・カフェも元祖ポエトリー・スラムが行われているシカゴのグリーンミル・ジャズ・クラブもわたしを含めた多くの人にとってはスポークンワードの聖地で、どちらにも一度だけ行ってスラムを見たことがある。

ニューヨリカンでのスポークンワードがプエルトリカンや黒人など非白人のアーティストたちが中心となっていたが、シカゴでスラムを生み出したマーク・スミスは労働者階級の白人であり、白人のあいだにも広まった。しかし競技に勝つには一般客から選ばれた審査員にウケるパフォーマンスが求められるため、次第に「勝てる」詩のパターンがマンネリ化してしまう(トラウマと向き合う、差別や困難を乗り越える、といった感動ポルノ的なものや、大げさに政府や保守系の政治家を揶揄して叩くものが多い)。

わたし個人の「超」がつくくらいの偏見で言うと、ジョージ・W・ブッシュの時代にはただ政府や大企業を叩くだけのチープな政治的な詩が蔓延し、バラック・オバマが就任すると突然なにも言うことがなくなった白人男性たちが「彼女にフラれた」とかカントリー音楽かよ!みたいな詩を量産しだした記憶がある。あと、わたしが住んでいたポートランドやシアトルは白人の人口が多いので黒人のパフォーマーが少ないのだけれど、黒人の参加者が人種差別を批判するような詩を読むと、レイシストだと思われることを異様に恐れるこの地域のリベラル自認の白人審査員たちが内容に関係なく決まって高評価するのを何度も見た。まあそういったあれこれがイヤになってわたしはシーンを離れてしまったのだけど、非白人や女性、クィア、若者など限定のイベントはいまでも好き。

それはともかく、ニューヨリカンはプエルトリコ系のアーティストたちを中心に一般社会からはみ出した人たちが集まる場所だったのがブームになって(わたし含め)観光客が殺到するようになり、スラムの大会にはメディアのカメラが入ったりスポンサーが付くことでコミュニティとしてお互い高め合うよりどんな手段を取ってでも勝つことが重視されるようになるなど、アンダーグラウンドの表現がブームを起こした時に起こりがちな問題がここでも。

エピローグではスポークンワードの現在を象徴するいくつかの話題が提示される。たとえばトランプの4年間のあいだホワイトハウスはポエトリーを失っていたけれども、バイデン大統領の2021年の就任式におけるアマンダ・ゴーマンさんによる詩の朗読は新しい時代を予感させてくれる素晴らしいパフォーマンスだったし、ロサンゼルスの多様な若者たちの交差する日常をスポークンワードを通して描き出した映画「サマータイム」も最高。ぜひ見て欲しい。

アマンダ・ゴーマンさん自身は自分のことをスポークンワード・アーティストだとは考えていないけれど、彼女の世代にとっては詩がステージやソーシャルメディアでパフォーマンスされることはごく当たり前のことで、詩人とスポークンワード・アーティストの区別自体がもはや成り立たない。上で書いたようにわたし自身はある時期スポークンワードにハマったあとマンネリや白人リベラルの事なかれ主義的なメタレイシズムを感じてうんざりした経緯があるのだけど、もう一度また目を向けてみたいと思った。