John H. Evans著「The Human Gene Editing Debate」

The Human Gene Editing Debate

John H. Evans著「The Human Gene Editing Debate

ヒトゲノム編集技術に対する倫理的な制約について考察する本。あんまり期待していなかったのだけれど、議論の立て方がシンプルでなおかつ応用性があり、予想以上の内容だった。著者は応用倫理学者で、本書の内容はより簡潔にPNASに掲載された論文にもまとめられていてそっちだけ読めばいいような気もするけど、まあこの本自体短いし興味あれば読んで。

本書の中心的なトピックは、いわゆる「すべり坂議論」の問題だ。すべり坂議論といえば、倫理的に問題があるとされたなんらかの行為を少しでも許容したら、あれもこれもとずるずると坂をすべり落ちるように許容範囲が拡大して、ついには重大な倫理的な悪までも止められなくなる、というものだ。これはたとえば「同性愛行為を社会的に公認すれば小児性愛行為も認めることになるのではないか」といった形で使われ、ネットの議論では論理的誤謬の一種として扱われることが多い。しかしヒトゲノム編集をめぐる倫理的議論においては、すべり坂の一番下に優生主義やホロコーストという人類にとって到底許容できない絶対的な悪が待ち構えている以上、坂のどこかの段階ですべり落ちるのを止めることが倫理的に要請される。

倫理的判断が坂をすべり落ちるのはどういう時か。それはある許容された行為と別のまだ許容されていない行為とのあいだの区別が曖昧であるとか、もしくはそれらは連続していて区別することに合理的な根拠がない、とされた時だ。生命倫理や法の専門家たちは一貫した合理的な判断を好むので、ある行為Aが既に許容されている行為Bに類似しているとか、それと区別することが困難だという根拠を提示されると、行為Aについても許容するべきだと判断しやすい。そうした判断の積み重ねが倫理的許容範囲を拡大し、倫理的判断が坂をすべり落ちてしまうのだ。

このことは、ヒトゲノム編集のような広範な技術をどこまで社会的に許容するかという倫理判断において、どういう基準を設ければ倫理的判断が坂をすべり落ちるのを止められるのか、という考察につながる。たとえば「ヒトゲノム編集は弊害がよくわかっておらず危険だから行うべきではない」という基準は、研究が進み危険性が解明されれば効力を失う。また多くの人は直感的に「病気や異常をなくすためのゲノム編集は良いが、正常な個体の外見を変えたり知能や運動能力を向上させるためのゲノム編集はよくない」と感じているが、なにが病気や異常なのかの定義ははっきりせず曖昧さがあるため、この基準はすべり止めにはならない。著者は本書を通じて「ヒトゲノム編集がディストピアに繋がるのを防ぐための強固なすべり止めとなる基準はなにか」探すが、なかなかそれは見つからない。

いま現在の社会において最も強固な基準は、ヒトの体細胞に対するゲノム編集は認めるが、生殖細胞に対するものは認めない、という基準だ。体細胞へのゲノム編集の影響はその個体に限られるのに対し、生殖細胞のゲノムを編集することは次世代以降の個体に影響を与え、かれらの人間としての尊厳や社会への影響も大きいと考えられるので、この基準は多くの国で守られている。しかし中国の研究者がHIVへの耐性を持つとされる双子の子どもをゲノム編集によって誕生させたと発表して逮捕されたように、抜け駆け的にこの基準は綻びかけている。もし今後抜け駆け的なものも含め研究が進み、ゲノム編集によって安全に子どもが将来的にAIDSや癌や糖尿病になる危険を劇的に減らすことができるとなったとき、この基準がずっと保たれるとは考えにくい。

また、子どもの形質をゲノム編集によって選ぶ権利にまでリプロダクティヴ・ライツの概念が拡張された場合、それまでヒトゲノム編集の濫用を押し留めていた基準の大半が吹き飛ぶ可能性もある。子どもの性別や障害の有無を理由に生むか生まないか決める傾向は既にあり、現在ではそれは選択的中絶や受精卵の選択といった方法で行われているけれども、そこから生体幹細胞を使って無数の受精卵を作りそのなかから選択する行為、そしてわざわざ受精卵を作るまでもなく両親の精子と卵子から「生まれてもおかしくない」遺伝子の組み合わせを人工的に選択する行為、そして両親の遺伝子に限定せずにありとあらゆる遺伝子の組み合わせから自由に選ぶ行為まで、すべり坂の上では連続しているため、次々にすべり落ちる可能性がある。

現状、これらの行為の多くは技術的に不可能だったり科学的知識が少なすぎるためただ単に「危険だから」という理由で抑止できているのだけれど、CRISPR技術の登場と爆発的な普及に見られるように、いつそれらの技術が実用化されるか予想は難しい。将来的に実現しそうな技術であれば、いまのうちからその倫理的側面について議論し、よりすべりにくいような歯止めを構築しておくべきだ、と著者は主張している。けどわたし的には、遺伝子技術よりもすべり坂の議論の方が参考になった。