Jeff Sebo著「The Moral Circle: Who Matters, What Matters, and Why」
動物解放論で知られるニューヨーク大学の倫理哲学者が、人間の倫理的責任の対象を、人類と比較的近い霊長類・哺乳類やその他の動物だけでなく、昆虫や人工知能なども含めるべきだと訴える本。
ピーター・シンガーをはじめとする動物解放論者たちは。人間は人間であるというだけの理由でほかの種より権利を保護されるべきだという考えを種差別だとして否定するが、かといって全ての命が同価値だとか、全ての生命には同じだけの権利があるとは主張していない。論者によって基準はさまざまだが、意識の存在や過去や未来の認識、恐怖や希望の感情、快不快の感覚などさまざまな基準により、それぞれの命がどの程度倫理的判断の対象となり、保護されるべきなのか論じられてきた。
著者はそうした過去の論争を振り返り、人間は動物やその他の人類以外の生命の認知能力や感覚を低く見積もることで、それらの命の価値を低く見積もる傾向にあることを指摘する。あとになって研究が進み、当初思われていたより動物の認知や感覚が高度であることが判明したことで、より高い倫理的判断が必要な対象であるという認識が広まり、畜産や実験における動物の扱いが改善されたり動物が住む自然環境の保護が行われるなどしてきたが、それは多大な倫理的逸脱を積み重ねたあとの話。人類が自分たちに甘く他の生命や非生命の価値を低く見積もる傾向にあるという事実を踏まえるならば、ある対象が倫理的保護の対象となる可能性が一定以上あるなら倫理的対象だと考えるべきだと著者は主張する。
ある生命や非生命が倫理的対象であることは、すべてのそうした生命や非生命を同等に扱わなければいけないということではない。たとえば(どのような具体的な基準を採用するにせよ)昆虫が倫理的保護の対象となる可能性が0.1%の可能性で存在するのだとしたら、少なくともわたしたちは0.1%に相当する倫理的配慮を与えるべきだ。0.1%とはいえ昆虫の個体数は人類や霊長類に比べるとはるかに多く、集団としての倫理的価値は決して少なくない。単純に数で比べるべきではないとしても、数を無視して個体の倫理的価値のみで判断するのもおかしい。このことからたとえば著者は、牛や豚や鶏を食べるより昆虫食に移行したほうが倫理的であるという考え方に一定の疑問を提示する。
また、現在の人工知能が倫理的配慮の対象であると考える人は少ないが、今後の発展によっては人工知能が(それが具体的にどのような基準であれ)倫理的対象としての基準を満たす可能性はある。倫理的対象となる可能性が少しでもあるなら、少なくともその可能性に応じた分だけ倫理的配慮を与えるべきだという主張は、汎用人工知能の登場が近いとされるいま(てゆーか、汎用人工知能の定義を近い未来に実現可能なところまで下げてきている気もするけど)、覚えておいていいかも。