Heather Montgomery著「Familiar Violence: A History of Child Abuse」
過去数百年を遡り、イングランドにおける「子どもに対する暴力」あるいは「子どもへの虐待」(child cruelty、のちにchild abuse)という事象と概念の歴史を綴る本。著者はもともとは全世界を対象としてそれぞれ比較する研究をはじめたのだけれど、イングランドとスコットランドというごく近い地域ですら大きな違いがあることが分かり、イングランドに焦点を絞った様子。個別の事例については文化的な違いが大きいけれど、そこから導かれる議論は普遍性がある。
歴史的に子どもは自分の意見や経験を世の中に発表する機会を持たず、したがって子ども自身が自分や仲間が受けた暴力について語った記録はほとんど存在しない。あるのは裁判や医療の記録だったり、報道記事だったり、子どもが大人になってから書いた回想などであり、必ずしも子ども自身の経験を反映しているとは限らないが、著者は綿密にそれらを調べ上げ、当時の社会で子どもに対する暴力がどのように考えられていたのか、どういう行為がタブーや犯罪と見られ、どういう行為なら肯定あるいは容認されていたのかなど詳しく論じられる。
昔は子どもは人間以下の存在とされており、子どもに対する暴力はなんらタブーではなかった、という論者もいるなか、著者はそれはありえないと主張する。たとえその形は違っていても、親が自分の子どもを愛し子どもにより良い人生を歩むよう期待するのが標準であり、理由もなく意図的に子どもを傷つけることは例外的だったし、そうでなければ社会生物学(進化心理学)的にも人類が社会を築いて存続させることはなかったはずだと。しかしもちろん、何が不当な暴力とされるのかについては、歴史的・社会的にかなりの幅がある。
本書は章ごとに子どもの放棄、ネグレクト、体罰による躾、性的虐待という子どもに対する暴力のそれぞれのパターンについて歴史的にどう考えられていたのか追い、そのうえでそうした暴力について社会がどう介入したのか、そして誰がその専門家として知識を生み出したのか説明する。そしてそれは、たとえば現代なら虐待とされる子どもの労働強要や経済的困窮による食事や居住環境の不備などが過去には当たり前、あるいは仕方がないものとされていたように、その時の社会的な状況によってさまざまに変化する。また、なにが虐待にあたるかという判断では、労働者階級やアイルランド人などの文化に対する偏見が介在するほか、宗教的マイノリティの信仰に基づく行為が虐待とされるなど、その社会における権力構造の影響も強く受ける。これは、現代アメリカにおける児童福祉制度が黒人を中心とする非白人たちに対する「家族警察」になっていることを指摘するDorothy Roberts著「Torn Apart: How the Child Welfare System Destroys Black Families—and How Abolition Can Build a Safer World」とも呼応する。
著者は20年以上も前に、タイの児童売春(現在の定義でいうところの性的人身取引)の現場に参与観察した研究の結果をまとめた「Modern Babylon?: Prostituting Children in Thailand」を出版して大きな論争を呼んだ人類学者。その研究において著者は、実際に外国人観光客を相手に売春を行っている子どもたちが売春を家族に貢献するための仕事と割り切っていること、ほかにお金を稼ぐ手段があっても売春のほうが短時間で稼げると言い、親も子どもが家計に協力するのは当然で外国人観光客を客に取るほうがほかの選択肢より安全だと考えていることなどに直面し、ショックを受ける。わざわざ子どもを買春するためにタイやフィリピンやスリランカに来る外国人観光客の行為は絶対に肯定できないけれども、アジアの子どもたちを救え!とばかりに児童売春を問題視する国際社会は自分たちが救おうとしている子どもたちの声を聞いていないのではないか、という著者の問いは、児童虐待を容認するのか、などという非難の対象となり、参与観察の倫理をめぐる論争も起きた。
本書が対象とする過去の歴史における子どもたちは、タイの子どもたちと違って直接著者が話を聞き取ることができないが、子どもに対する暴力だけでなく「子ども」という概念そのものの社会的・歴史的な構築に関心を払い、そこから子どもたちの声を掘り起こそうとしてきた著者だからこそ書けた本。著者自身が結論で触れているように、トランスジェンダーの子どもに対する医療措置を「虐待」として処罰する法律が各地で制定されるなか、「子どもへの暴力」の定義をめぐる政治は現在も続いている。