Eunsong Kim著「The Politics of Collecting: Race and the Aestheticization of Property」
アメリカの美術館・博物館のコレクションおよびそれらに含まれるアートがどのように人種資本主義や植民地主義、「合理的」労働管理の論理などに繋がっているか、マルセル・デュシャンの権威化など近現代美術における価値生成を中心に論じる学術書。著者はボストンの大学で准教授をしているが、以前ワシントン大学大学院に通っていて、わたしと共通の知り合い多数(わたしもつい最近はじめて会った)。
これまで美術館や博物館と植民地主義との関わりに関しては、Bénédicte Savoy著「Africa’s Struggle for Its Art: History of a Postcolonial Defeat」でも論じられているように、植民地から奪われヨーロッパの博物館の所蔵物となったアートや文化資産の返還をめぐる論争が注目されてきた。アメリカでの類似の例では、Tamara Lanier著「From These Roots: My Fight with Harvard to Reclaim My Legacy」で語られる、奴隷とされた祖先が映された銀板写真の返還をハーヴァード大学に求めて訴えている黒人女性のケースがあり、本書でも一章を割いて彼女の訴えについて取り上げているが、そういった歴史とはあまり関連付けられることのない近現代美術やコンセプチュアル・アートを主な対象として論じている点が本書は新しい。
著者が分析するのは、近現代美術に価値を与えているのは何か、という問題だ。それは個々の作品をコレクションするべきアートとして認定し、値段を付け、寄贈してきたカーネギーやメロン、フリック、ロックフェラー、モーガンら大富豪たちであり、その権威はかれらの富を生み出した石油や鉄道、その他の産業とそこにおける資源や労働者の搾取と無関係ではない。かれらが重要だと認めた、ほとんど白人男性たちによる作品がアートとして美術館に集められる一方、その他大多数の人たちが生み出す文化的表象は軽視・無視される。美術館は人類にとって貴重な表象を将来のために保存・保護すると同時に、それ以外の大多数の表現を押し潰し歴史の彼方に抹消させる権力機関でもある。たとえば既製品の男性用小便器に署名をしただけのマルセル・デュシャンの「泉(噴水)」は芸術の概念を問い直した作品として評価されたが、意味や既存の価値からの自由を象徴するとされたその作品の論評は、まさにその時トイレや水飲み場を舞台として起きていた人種隔離政策に対する抵抗と闘争といった現実からは一切切り離された。
本書では導入部において一瞬だけデュシャンの「泉」をNFTアートと関連付けて語る部分があったり、何度か(監獄)廃止主義に繋がる美術館廃止論をちらつかせるような表現があって、わたしはそれらについてもうちょっと詳しく論じてほしかったなあと思うのだけれど、いろいろ刺激を受ける内容。途中いきなりテーラー主義や合理的労働管理の話が出てきたときは「何の話をしてるの?」と思ったけどちゃんと繋がってきたので、ちょっとややこしいけどアート関係者は是非読んで。