Donald G. McNeil Jr.著「The Wisdom of Plagues: Lessons from 25 Years of Covering Pandemics」
ニューヨーク・タイムズ紙の科学記者として25年に渡って世界各地から感染症について報道してきた著者が、引退を機に、キャリアを通して見てきた感染症対策の現場から学んだ教訓や提言を、仕事への影響や世間の評判を気にせず思い切りぶちまける本。
著者が25年にわたって世界各地でさまざまな感染症の予防や収束、治療や研究について見続けてきた著者の議論は、たしかな知識と観察に基づいていて説得力がある。そのなかで繰り返し語られるのは、感染症の多くが衛生環境の悪い閉ざされた地域や住居・職場で生きるマイノリティの人たちのあいだで広まることに対する、マジョリティの側の差別的な態度と、ときにそうした差別を助長しないために公衆衛生上のメッセージや対策を避けてしまうメカニズムや、医療が欧米による植民地主義や人種差別に加担してきた歴史を背景として感染症対策が新たな植民地主義的介入として信用を得られなかったり、国際援助機関の専門家たちのあいだにそうした介入を受ける社会についての文化的理解が足りないために理論的にはうまくいくはずの対策が失敗するといった、社会的・歴史的な影響だ。
たとえば若い女性の多くが年上の男性による性虐待を受ける社会において女性たちを性感染症から守ろうとしてコンドームを配布する対策は、その女性が自ら性に積極的な女性、もしくは性労働者だと宣伝していると解釈されてしまうため当人たちから避けられ、だったらせめて性労働者だけにでも使ってもらおうとしたら地元の警察によりコンドーム所持が売春の証拠として扱われる。アフリカの人たちやアメリカ国内の黒人たちが同意のないまま人体実験の対象とされてしまった歴史は、いまでも西洋医療への不信という形で感染症対策の障害となっているし、援助機関が地元の伝統的ヒーラーたちを蔑ろにして協力関係を築けないと住民たちにも拒絶されてしまう。パキスタンの山奥に潜伏していたビン・ラディンを探すためにCIAが医者を雇ってビン・ラディンの家族がいるとされている地域の人たちを対象にB型肝炎ワクチン接種プログラムを実施しDNAサンプルを収集した件は、現地でワクチンや援助機関に対する懐疑論を爆発的に広め、その結果多くの人たちが予防できるはずの病気で亡くなった。
このような、それなりに理由のある感染症対策に対する反対論や陰謀論に対しては、そういった背景を理解して現地のヒーラーや宗教指導者らの協力を得たうえで対処すべきだとする著者だが、大した理由もないのに先進国の比較的恵まれた、あるいは力のある人たちが広める似非科学や陰謀論もあり、そちらに対しては著者は辛辣。アンドリュー・ウェイクフィールド元医師が広めた(科学的に完全に否定されている)自閉症ワクチン原因説や、アメリカ大統領が率先して広めた数多くのCOVID関連の陰謀論など、人を殺す似非科学的言説に対しては言論の自由を認めず法的に責任を追求すべきだと主張する。
また、著者はCOVIDに際して個人の「マスクをしない自由」や「ワクチンを受けない自由」を優先した結果より多くの死者を出してしまった政府も批判、パンデミックにおいては被害者は同時に加害者にもなってしまうことを指摘。オミクロン波までゼロコロナ政策を実現させた中国政府や、アメリカとほぼ同時にHIV/AIDSが波及したキューバのカストロ政権が感染者の隔離によって感染拡大を封じ込めた例を挙げ、大勢の人の命を守るためには公衆衛生行政の強権を受け入れるべきだと主張する。もちろんそれには、SARSの流行などを経たアジア各国に顕著な同調圧力の強い共同性とともに、公衆衛生行政に対する絶対的な信頼が必要であり、公衆衛生行政がそうした信頼を得ているかという問題もあるが、陰謀論や似非科学によって積極的に、そして合理的な理由もなくその信頼を崩そうとしている政治勢力が猛威を振るっており、公衆衛生行政だけが頑張っても難しいところ。しかも実際に、公衆衛生行政も間違うし、陰謀論を助長する危険などの政治的影響を考慮して透明性に欠けることもままある(たとえば本書でも取り上げられている、SARS-CoV-2の起源に関する科学的論争など)。
言論の自由の制限や公衆衛生行政の強権行使を主張するほか、HIV/AIDSやCOVIDの次に世界中で広まりかけたサル痘(M痘)に関して同性愛者差別に繋がらないようにとメッセージや対策を控えめにすることは結局より多くの同性愛者に感染を広げてしまうとともに社会的な偏見も強化するとして、差別や偏見をなくすためにこそマイノリティへの遠慮を排して感染症の拡大を全力で止めるべきだという提言など、著者の主張には異論も多く、著者自身、友人から「感染症について知れば知るほどファシストになっているのでは」とからかわれたという。主張に賛成するかどうかは別として、先進国ではあまり騒がれていない世界各地の感染症やそれらへの対策についてたくさん学べる貴重な本だった。