Daniel Sailofsky著「Playing Through Pain: The Violent Consequences of Capitalist Sport」

Playing Through Pain

Daniel Sailofsky著「Playing Through Pain: The Violent Consequences of Capitalist Sport

資本主義によってどのようにスポーツが捻じ曲げられ、スポーツ本来の利点とされるものを消し去られ、社会に暴力を蔓延させているか訴える本。

本書がカバーする内容は幅広い。第一章で労働価値説をはじめとするマルクス主義の分析フレームワークを説明したあと、企業や大学の利益を目的としたプロやセミプロのスポーツが選手たちの労働を搾取すると同時にかれらに無理な競争を強い生涯にわたる負傷を負わせていること、ゲームの外で頻発している選手やファンによる(主に女性に対する)暴力をそれらのチームが隠蔽しあるいは矮小化してきたこと、資本主義によってアノミーを抱えた労働者たちがスポーツチームへの熱狂的支持とそれがもたらす連帯感によって無害化されるとともにかれらに「人は個人の能力によって正当に評価される」というメリトクラシー信仰を布教していること、オリンピックやFIFAワールドカップのような大規模なスポーツイベントがナオミ・クラインらが批判する「災害資本主義」と対を成す「祝賀資本主義」(Jules Boykoff著「Celebration Capitalism and the Olympic Games」参照)が人権や環境を守るための通常の法制度を逸脱した大規模開発を正当化し市民に多大な負債を押し付けていることなど、次々と論じられる。

スポーツは本来、健康や協調、自己修養やフェアプレイの精神を育む、優れた娯楽であるはずだと著者。しかしスポーツが一部の資本家たちの利益最大化の道具となったとき、そうした利点は脅かされ、ほとんどの人たちには労働搾取と暴力だけが残される。これを根本的に解決するには社会主義への転換が必要だと言いつつ著者は、資本主義社会のなかでもスポーツの弊害を和らげる手段はあると言う。たとえば近年、野球のマイナーリーグ選手の労働組合が設立されたことで極貧にあえぐ選手たちの収入は倍増したし、高校アスリートからプロまでスポーツ選手たちがブラック・ライヴズ・マター運動に果たした役割は大きい(Dave Zirin著「The Kaepernick Effect: Taking a Knee, Changing the World」やMichael Holding著「Why We Kneel, How We Rise」参照)。

わたしが住むシアトルでも来年FIFAワールドカップの試合がいくつか予定されていて、商工会や市政府がシアトルの知名度を高め(もういらんやろ)大きな経済効果をもたらすと大々的に宣伝する一方、スタジアムが近くにあるパイオニアスクエアやチャイナタウンではホームレスの人たちの排除が繰り返され、観光客の安全のためと称して多数の監視カメラが増設されている。とくにトランプ政権が正規のプロセスすら無視した移民排斥を進めているいま、中国系だけでなく多数の移民が暮らすチャイナタウン・インターナショナルディストリクトに多数の監視カメラが設置され、そのデータが警察を通して移民局と共有されていることが、地元の人たちをどれだけ不安にさせていることか。スポーツがどうあるべきなのか、社会においてどのような役割を果たすべきなのか、理想とともに現実に可能な改革についてもっと考えられてほしい。