Ben Tarnoff著「Internet for the People: The Fight for Our Digital Future」
もともと政府の予算によって作られたインターネットが民間に譲り渡され、企業により囲い込まれ、巨大な個人データ収集マシンに変貌した歴史を振り返りつつ、人々の手のもとにインターネットを取り戻すことを呼びかける本。
本書の前半はインターネットを成り立たせている物理的なインフラがどのようにして民営化され、自治体やコミュニティ団体が設置・運営しようとするネットワークが民間企業のロビー活動などによって攻撃されてきたか、そしてより多くの人たちがブロードバンドインターネットに接続できるようにという口実で多額の助成金がブロードバンド業者に流れているけれども利益優先の民間企業はそうした助成金を受け取りながら約束を果たしていないことなどが指摘される。後半はオープンなはずのインターネット上に「プラットフォーム」と呼ばれる(けれどもその呼び名ほどオープンではない)囲い込まれた領域を作り出し、労働者や個人情報を保護する法律を形骸化させるとともに人々をデータポイントとして監視し売りさばくようになった大手企業の問題について取り上げる。
ソーシャルメディアを通したロシアによる英米での選挙への介入、そして(その結果だとは必ずしも言えないものの)ブレグジットとトランプ当選という2016年の大事件、そしてその後のコロナパンデミックに対するフェイクニュースの拡散や2021年の連邦議事堂占拠事件などをうけ、ソーシャルメディアやその他の「プラットフォーム」企業への批判が高まるなか、力を持ちすぎたそれらの企業の強制的な分割やそれらを電気や水道と同じようなユーティリティとして規制することが提案されているが、著者はそれよりさらに踏み込んでインターネットの再公有化を提案する。インターネットが一部の大企業によって私物化されたのは必ずしもそのように運命付けられていたのではなく、あくまでそういう政治的決定の結果なのだから、逆にインターネットを公有化することも可能である、と著者は主張する。
実際に政治的に可能であるかどうかはともかく、インターネットの物理的なインフラを公有化することは想像しやすい。しかしその上に成り立つプラットフォームを公有化するとはどういうことなのか分かりにくいことは著者も認めている。たとえばフェイスブックを政府なりコミュニティなりが所有したとしたら、広告を売るためにできるだけユーザの滞在時間とエンゲージメントを増やさなければいけないという動機は消滅するかもしれないけれど、誰かが個人データを収集したりフェイクニュースをバズらせたりすることは変わらないだろう。また、その方法だといまの商業的なフェイスブックを置き換えることはできても、フェイスブックの次に来るはずの新しいプラットフォームは生まれてこない。こうした懸念に対して著者は、アンジェラ・デイヴィスらが唱える監獄廃止論を例にあげ、いまある仕組みをまた別のなにかで直接置き換えようとするのではなく、たくさんの新しい試みを生み出すことで全体図を変えていこうと提案する。その一つの試みとしてたとえば著者は、フェイスブックをはじめとするあらゆるソーシャルメディアプラットフォームが公有化されたプロトコルによる相互乗り入れを可能にすることを例にあげる。
うん、それは公有化ではなく規制の一種じゃないのかな?という気はするのだけれど、インターネット私有化の歴史、とくにアル・ゴアが上院議員から副大統領になってインターネットのあり方についての考えをどう変えたかのあたりなど、興味深かった。