Barry Lam著「Fewer Rules, Better People: The Case for Discretion」
社会や組織においてどうしてルールが増えていくのか、そうして複雑化したルールがどのように本来の目的を逸脱してしまうのか論じ、公平性を確保したうえでの自由裁量の拡大を訴える短い本。著者はカリフォルニア大学リバーサイド校の哲学者だけれど、めっちゃ読みやすいし思ってた以上に良くできていて感動したほど。
本書は著者の個人的な体験から始まる。著者のパートナーが二度の接種が必要なワクチンの二度目を打つために10歳の娘を医者に連れて行ったところ、クリニックの側から「二度目の接種が必要です」という連絡があって予約をとったにもかかわらず、クリニックの記録に一度目の接種が見つからなかった。一度目のワクチンと二度目のワクチンは分量などが違うので一度目の確認が取れないと二度目は接種できない、というのがクリニックのルールで、それは理由のないものではない。世の中にはワクチンに対する不審感を持っている人や陰謀論を信じている人や、ただ単にクリニックに行く回数を減らしたいと思う人がいて、ワクチン接種の回数を最小限で済ませようと接種していないワクチンを接種したとウソをつく人はいるし、患者やその親の言うことを信じた、という口実で医者や看護師が不正に加担することもないわけではない。しかし著者の側から見れば、クリニックの側の記録にミスがあったせいで娘に打たなくてもいい三度目のワクチンを打つのは受け入れがたいし、記録がはっきりするまで延期するのも避けたい。
最終的に看護師が親の話を信じて、言う通りに記録に追記したうえで二度目のワクチンを打ってくれたが、これは正しいのかどうか。たとえば同じ話をすれば誰でも同じように信じてもらえるかというとおそらくそうではなく、看護師は子どもや親の外見や会話の口調、身体的なふるまいから信用できるかどうか判断していたはず。母親の人種は分からないけれど著者はアジア系の大学教授であり、一家はそれなりにちゃんとした身なりをしていて、医療従事者に信用されるような言動ができたと思われる。
また別の逸話。ある小さな街で働いている警察官のもとに、万引きされたから逮捕してくれ、という通報がある商店から届いた。犯人とされたのはまだ10代の若い男性で、盗んだのはパン一斤、ピーナッツバターの瓶一つと1ガロン入りの牛乳。話を聞くと、盗みが悪いことだとは分かっていたけれども、幼い弟に与える食べ物がなくて困っていたという話だった。この状況で若者を逮捕することに躊躇した警察官は、店主に対して「この子が盗んだ食べ物の代金を働いて返すことはできないか」と相談し、男性が駐車場の掃除やゴミ出しなどの作業を決められた時間行うことで解決した。その結果に満足した店主はその後もかれに定期的に食べ物を提供して手伝いをしてもらうことに。こうした解決は美談として受け取られがちだけれど、警察逮捕でなく当事者同士の和解を促したのは良いとしても、厳密に言えば食料を代価に労働させることは最低賃金の法律に違反しているし、児童労働の法律にも関わってくる。一度ならともかく今後も定期的にとなると労働搾取の問題にもなり、警察官が違法行為に加担しているとして糾弾されるおそれもある。
さらに再び著者の娘の話。娘が7歳だったとき、家事を手伝うことを条件にお小遣いをあげることにしたが、まだ幼い彼女にできることはと考えたうえで、食洗機から洗い終わった食器を取り出して棚に戻す仕事が与えられた。しかし子どもだから最初は良かったもののだんだんサボるようになってきたので、洗い終わったらすぐに食器を取り出すこと、というルールを設けるが、洗い終わったばかりの食器は熱くなっていて危険だし、学校の用事などがあっていつもすぐに取り出せるわけではないからと、どんどんルールが複雑化したり例外規定が増えていく。さらに娘は「すぐに食器を取り出して棚に戻すこと」というルールはあってもどれだけの速さで仕事を終わらせなくてはいけないという決まりがないことに目をつけ、お皿を2、3枚だけ取り出して棚に戻して「まだ作業中です」と言って遊びに行ってしまう始末。たった一人の子どものお手伝いをめぐるルールですらこれだけ複雑になってしまうのだから、大きな組織や社会全体に適用するためのルールがこれ以上に複雑になるのもある意味仕方がない。
一般に、政治哲学では人による統治より法による統治のほうが優れているとされている。人による統治では権力者の一声で物事が決められてしまうので、不公平だし将来の予測が立てられず社会が安定しない。ルールのある社会が平等で豊かな社会だとは限らないけれども、ルールがなければ平等な社会も豊かさも成り立たない。しかしルールの裏をかいた、ルールの枠内にとどまりつつ(あるいは枠のちょうど上あたりをうろうろしつつ)ルールの意図や精神に反した行為(Bruce Schneier著「A Hacker’s Mind: How the Powerful Bend Society’s Rules, and How to Bend Them Back」が言うところのハッキング)によって自分だけ利益を得ようとする人はいつの時代にもいるし、それを防ごうとするとルールはどんどん複雑化して、こんどは逆に真面目に生きている普通の人たちの自由を締め付け始める。そして、どれだけ複雑にしたところで、ルールは全ての可能性に事前に対応することはできないので、どこかで必ず誰かによる判断を必要とする。公正なルールが必須とされるスポーツの世界ですら、たとえばスポーツマンシップに反した行為に対するペナルティなどにおいて審判による主観的な判断を排除できない。
その究極が、現在進行中の、司法や行政におけるアルゴリズムや人工知能(AI)の採用だ。警察や裁判官、福祉局などの役人たちの裁量に任せていれば、人種や階級などによる偏見によって差別的な判断が下される可能性は高く、実際にそれはあらゆる分野で確認されている。かれらが裁量権を行使できないようにアルゴリズム的に決定するよう義務付けたり、AIによって判断させたりすれば、そうした属人的や恣意性な偏見を排除した公正な司法や行政が実現する、というのがアルゴリズムやAIの採用を勧める大きな理由だが、実際のところ過去に人間が下した決定に基づいて設計されたアルゴリズムやAIによる学習は過去の偏見をそのまま温存するし、機械的な判定は恣意性を無くすのではなく制度化するだけにしかならない。
たとえばスピード違反の取り締まりは同じ速度で走っていてもごく一部のドライバーしか捕まらない点で不公平に感じるが、もし恣意性を完全に省き一定のスピードを超過したドライバーすべてを自動的に取り締まることができるシステムが導入されたとしても、制限速度をどこに設定するのかという決定は恣意的であり、その境界線上では計器の誤差に過ぎない速度の違いで捕まる人と捕まらない人が出てくる。これがさらにAIを採用して速度だけでなく車の整備状況や車間、運転のスキルなども総合して安全運転の点数を付けられるようなシステムとなれば、どのデータを含めるのかといった決定やどれだけの点数で安全だと認められるのかといった点で恣意性が入り込むだけでなく、どう判断が下されたのか説明することすらできないことも多い。より権力や財産のある人たちは一見「客観的な」システムを通して自分たちの認識を社会に押し付けたり、自分たちだけが利用できるハックを温存したりできる。
刑事司法における裁量権の範囲やそれがどのように使われるかは特に重要。どこで取り締まりを行うか、どういう場合に犯罪者を逮捕しどういう場合に注意だけに留めるのかといった決定において警察にはほとんど絶対的な裁量権があるし、そうして捕まった人たちのうち誰をどういう罪状で起訴するのかは検事の裁量権に委ねられている。刑事裁判ではどの証拠や証人を採用するのか判事が決められるほか、有罪か無罪か、有罪ならどれだけの刑罰に処するのかといった点で判事や陪審に大きな裁量権がある。そうしたなか、保守派は「リベラルな判事が犯罪者に甘い判決を出している」という不満を抱いている一方、リベラルは「人種や性別をはじめとした本来関係ない要素に起因する偏見によって平等な扱いがされていない」と批判してきたが、その双方の議論の結果として刑事司法制度における裁量権を制限する改革が進められてきた。
ドメスティック・バイオレンスを警察が見て見ぬふりをすることが多いからと「DVが起きたと信じる理由がある場合は加害者を逮捕しなければいけない」という法律ができたり、刑事犯の罪状をすべてランク付けして「このランクの犯罪の量刑はこの範囲にしなければいけない」と法律で決められたりしたが、それでも裁量権の行使やその悪影響はなくならない。DV加害者を逮捕しなければいけないという法律は、どちらが加害者かなんて自分たちは判断できないし逮捕しそこなって責任を取らされたらたまらないと判断した警察によって、自分自身や子どもを守るために自衛行為をとった被害者たちの逮捕を多数引き起こしただけでなく、逮捕の結果として加害者が失業したり子どもが親から引き離されるなどさらに暴力が悪化する要因を生み出したし、それぞれの罪状に課すことができる量刑の範囲が狭まったことで「どの罪状で起訴するのか、有罪にするのか」という形で検察や判事が裁量権を働かせることになった。裁判で被疑者の有罪を立証する自信がない検察官は、あえて重い量刑になる罪状をいくつも追加で起訴することで、無実の人に一部有罪を認める司法取引に応じるよう圧力をかけているし、なかにはその場にいる誰もがウソだと分かっている「架空の罪状」で司法取引を行うこともある。たとえば大麻所持で捕まった人に対して法律で刑期の下限が定められている場合、情状酌量の余地がおおいにあって長期刑はふさわしくないと全員が感じていても規定より短い刑期にはできないので、あえて大麻所持ではなく違法な銃を所持していたことにして、司法取引によってよりふさわしい刑に処すなど、明らかな違法行為に検察や判事、弁護士らが加担してたりする。
本書は社会におけるルールの重要さ、そしてそれがどうして複雑になっていってしまうのか理解したうえで、ルールが本来作られた意図や精神を尊重するためにも、ルールやアルゴリズム・AIから判断を人間のもとに取り戻すことを主張する。警察官や裁判官、役人、教師や会社の中間管理職まで、裁量権を拡大することはもちろん偏見に基づく恣意的な判断や権力の濫用や腐敗の危険も伴うが、それ以上に現実で出会う人たちをデータポイントではなく人間として扱うために必要なことだ。そのためには判断を透明化してのちに検証できるようにしたり、良い判断を続けていくうちにだんだん裁量権が増えていくような仕組みを著者は訴えていて、具体的にどうやるの?という疑問はあるけれど基本的な考え方には納得。
最後にもう一つ著者の娘の話。彼女がお手伝いをはじめてから1年後、せがまれてペットのウサギを二匹飼うことになったのだけれど、子どもにありがちなことに、娘は最初は動画サイトでウサギの育て方について調べたりして真面目に世話をしていたのに、次第にエサをあげたり水を入れ替えるなどの世話を忘れるように。複雑なルールによるアメとムチを通して食洗機のお手伝いはそこそこ定着したけれども、食洗機から食器を出すお手伝いと違ってこれは生きているウサギに関わる話であり、ルールによって行動を促すのは違うと両親は感じた。子どもにウサギの世話をさせるために長く複雑なルールやお小遣いの増減などの賞罰を行わなければいけないとしたら、自分たちは親として、人間として失敗しているのではないかと考えた両親は、ルールを定めて従わせるのではなく、価値観を育もうとする。娘にお手伝いをしてほしいのは彼女は家族の一員でありお互いに責任を持つ必要があるからだし、ペットの世話をしてほしいのはウサギたちが娘のケアを必要とする大切な、そして脆弱な命だからだ。両親は同時に、冷蔵庫に貼られていた食洗機についての複雑なルールも剥がした。
最近、政府の役割についていろいろ考えさせられることが起きているけれども、Marc J. Dunkelman著「Why Nothing Works: Who Killed Progress—and How to Bring It Back」やMichael Lewis編著「Who is Government?: The Untold Story of Public Service」などとともに、どうして政府や組織の規制が必要なのか、そしてどうすれば政府や組織による横暴や理不尽な規則による不自由を減らしながら、人々の幸せに繋がる実効的な施策が取れるのか、政府や大きな組織のあり方についてあらためて考えるために読まれてほしい。