Viet Thanh Nguyen著「To Save and to Destroy: Writing as an Other」

To Save and to Destroy

Viet Thanh Nguyen著「To Save and to Destroy: Writing as an Other

著作が日本でも出版されているヴェトナム系アメリカ人作家が、難民として南ヴェトナムから逃れてきた一家の過去や学生運動を通してアジア系アメリカ人としての意識を抱いた経験などを通して、作家として世間からずれたアウトサイダーとなることや人種や民族を理由にアウトサイダーに追いやられることなどについて文学史や文学論を交えつつ語ったエッセイ集であり連続講演集。

本書に収録された六つのエッセイは、ハーヴァード大学で1926年から続いているノートン・レクチャーの2023-2024年次に選ばれた著者が同大学で六回にわたって行った講演を収録したもの。著者はノートン・レクチャーの歴代の講演者たちのリストを見て「えっなになんで自分が呼ばれたの?自分と同姓同名の誰かと間違ってない?ヴェトナムではそんなに珍しい名前じゃないし?」と焦ったようだけれど、難民としてアメリカに移住してきた一家の経験から家族の苦労と文学への傾倒を語った初回からぐっと引き込まれる。

作家であること、とくにマイノリティの作家であることがどういうことなのか語ったあとの第三回は、イスラエル政府による占領とジェノサイドが続くパレスチナに同時代の文学者として、アジア系アメリカ人作家としてどう関わるのかという考えから、アジア系アメリカ人という存在について議論を深める。アジア系アメリカ人という集団はアジア系と呼ばれる多種多様な民族の人たちから自然に発生したのではなく、黒人公民権運動の影響を受けた学生運動から生まれたものであり、その展開においてエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978)から大きな影響を受けているけれども、もともとサイードがその言葉で指していたのはヨーロッパにとってのオリエント、すなわち中東や北アフリカだった。アメリカにとってのオリエントである東アジアや東南アジアにルーツを持つ学生たちはしかし、「アジア系アメリカ人」という概念を一般化することには成功したが、そうして生まれた「アジア系アメリカ人」コミュニティは自分たちより先に白人に近い地位を築いたアメリカのユダヤ人コミュニティをお手本にして社会的成功を目指し、本来のオリエントで進行中の移民植民地主義から目を逸らしてしまった。

文学者は現在進行中のジェノサイドに対してどう行動すべきか。暴力を受けている人々の声を届ける作品を書いて発表するのではなく、そういった人たちの声が代弁者を必要としなくても届くようにするべきなのではないか。いやそれを言うなら、そもそも暴力を止めて人々が悲鳴を上げなくても良いようにするべきなのでは。文学賞や文学団体ではイスラエル政府を非難すべきかどうかをめぐって内紛が起き、一部の作家たちによる文学賞や文学団体に対するボイコットがある一方で、パレスチナ支持の発言を理由に本来なら受けられたはずの賞を取り消されたり仕事を失ったりした作家もいる。遠い世界の果てにいる誰かのためにどれだけリスクを取ることができるのか、どれだけ犠牲を支払う覚悟が決められるのかというのは、作家だけでなく誰もが向き合う必要がある問題だが、自身と家族がフランスとアメリカによる植民地主義(と日本による侵略)のせいではじまった戦争の難民である著者だからこそ、著者の考えは重みを持つ。

パレスチナとアジア系アメリカ人の関係についての講演の次は越境と境界線についての講演で、わたしが一番影響を受けたフェミニストの一人であるGloria Anzaldúaと、わたしをk-popアイドル黎明期のH.O.T.沼に引きずり込んだ友人が最も影響を受けた韓国系アメリカ人アーティストテレサ・ハッキョン・チャがダブルでメインを張るというドリームチーム状態。難民、移民、それぞれの経験と植民地主義の影響を文学を通して語る。

最後の二編で講演はふたたび文学論に戻るけれど、自分の著書をフランスの書店の「アングロサクソン文学」の棚で見つけて悶絶するなど(たぶん英米文学は全部アングロサクソン扱いなんだろうし、「アジア文学」の棚に置かれたとしたらそのほうがおかしい)、マイノリティの作家としての指摘の一つ一つがおもしろい。著者がどれだけ主流(メジャー)な文学に興味を抱いたかという話で、わたしも昔影響されて一時期ウォルト・ホイットマンにハマるきっかけになった映画「Dead Poets Society」(邦題『いまを生きる』)に触れる部分は笑ったし、エミリー・ディッキンソンの「I’m nobody!」についての部分もわたしも「I’m nobody! Who are you?」を合言葉として使っていた黒歴史があるので、なんかいろいろ恥ずい。こんな辱めを受けるとは思わなかった。わたしは作家にはならなかったけど、マイノリティの若い子が自分たちを排除している主流文化、マイナーでなくてメジャーな文学に惹かれるとのたうち回ることになるの、理解も共感もできる。

ハーヴァード大学で百年前から行われている長い歴史ある講演、しかも六回も連続でなんて、名誉というより恐怖でしかないと思うのだけれど、これだけすごい内容ならみんな納得すると思う。わたしの紹介文なんてだいぶ浅い読解だから、読める人はちゃんと読んで。