Megan Burke著「Becoming a Woman: Simone de Beauvoir and the Politics of Trans Existence」
フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワール(以前からわたしの書いたものをフォローしている方には「最近の過激フェミニスト・デビューボ」としてもおなじみ)が『第二の性』第二巻冒頭に書いた「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言明をめぐり、トランスジェンダー支持者・トランスジェンダー反対派の双方がおかしな解釈をしていることを指摘し、ボーヴォワールの真意とそのラディカルさを伝える本。著者は大陸哲学やフェミニズム哲学を専門とし、自身もジェンダークィアを自認していた時期もある哲学者で、反トランスジェンダー的なフェミニズムの正当化にボーヴォワールを利用しようとする論者への反論に多くのページが割かれている。
わたしを含めボーヴォワールより後の世代のフェミニストたちは、あらかじめジェンダーをめぐる社会構築論と生物学的根源主義の対立が頭の中に入った状態でフェミニズム理論の古典としてボーヴォワールの文献に接し読んできた。しかしボーヴォワールの時代、まだフェミニストたちはジェンダーという性科学の概念を取り込んではいなかったし、社会構築論も一般的な立場ではなく、ボーヴォワール自身も社会構築論者ではなかった。彼女はなによりも実存主義者であり、また現象学者でもあったのだから、彼女の文章はその文脈で読まなければきちんと理解することはできない。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言明も、女性性が生物学的に決定された自然なものであるという考えを否定しつつも(この時点で性別を自然なものであると考える反トランスジェンダー論者は脱落する)、ジェンダーの社会的構築を論じるものではない。重要なのは女に「なる」とはどういうことなのか、という考察であり、彼女の議論は性別がどのように社会的プロセスと身体の関わりのなかで作られそれが実際の女性たちによってどう生きられているのかを丁寧に追い、その政治性を明らかにするものだ。
本書は150ページにも満たない短い内容ながら、『第二の性』だけにとどまらず他の代表作の議論を参照しながらボーヴォワールのラディカルな政治性を呼び起こし、現代にも通用するかたちで提示する。ボーヴォワール自身はトランスジェンダーの存在について論じなかったものの、彼女の哲学が女性として生きるトランス女性たちのオーセンティックな生を包摂し得るものであることを鮮やかに指し示している部分には感動すら覚える。学生時代に読まされた『第二の性』の記憶すらもはや定かではないのだけれど、いつかボーヴォワールのほかの著作もきちんと読みたいと(Skye C. Cleary著「How to Be Authentic: Simone De Beauvoir and the Quest for Fulfillment」を読んだときに続いて)思った。それにしても最近のトランス哲学出版ブームすごい。