Mary Anne Franks著「Fearless Speech: Breaking Free from the First Amendment」

Fearless Speech

Mary Anne Franks著「Fearless Speech: Breaking Free from the First Amendment

言論の自由とそれを保障したアメリカ憲法修正1条についての短絡的な理解とその無謀な濫用に抵抗して、平等と民主主義を広げるための勇気ある言論を推奨する本。

社会において抑圧されたり虐げられた弱者の権利を守るためには差別を行う強者の言論の自由も守らなければならない、なぜなら強者の言論の自由を規制する政府は必ず差別される弱者の抵抗の言葉も規制するからだ——というのがアメリカ社会で広く支持される「言論の自由絶対論」の論理だが、それは本当だろうか? 憲法修正1条は文言上は価値中立的だが、実際のところそれが守るのは人種主義やミソジニー、キリスト教ナショナリズムによる特定の信仰や宗教的価値観の強要、企業による無制限の選挙資金提供など反平等・反民主主義的な言論であって、それらに抵抗して平等と民主主義を守るための言論は常に弾圧されてきた。

たとえば現にいまアメリカでは、生徒や保護者の言論の自由を口実として、公教育において人種差別やセクシュアリティについて取り上げることが禁じられ図書館から多くの書籍が撤去されつつある。各地の大学でパレスチナへの連帯のために行動を起こしている学生たちは容赦なく逮捕されたり退学させられたりしているし、議会ではソーシャルメディア企業によって言論の自由が脅かされているとしてそれらの企業が差別的な言論や暴力的な言論に対するモデレーションを罰する議論が進んでいる。どんなに酷い意見であっても言論の自由は守られるべきだという議論は、平等や民主主義を広げるための言論が常に攻撃に晒されており、憲法はそれを守ってくれないという現実を無視している。有害な言論には有益な言論で対抗すべきだと言うけれども、実際には有害な言論を振り回す側は権力を使って有益な言論を沈黙させている。

だから言論の自由という原則を捨てるべきだ、とはもちろんならないのだけれど、言論の自由という原則だけを主張していればそれで済むという考え方は現実の社会における権力構造を軽視しすぎている。憲法によって守られていてもそうでなくても、多くの勇気ある人たちは犠牲を払いつつ言論を通して平等と民主主義を広げるために戦ってきたとして、本書はそうした勇気ある人たちを紹介し、わたしたちがそれに続くよう訴える。また差別的なデマや陰謀論の拡散を収益化して稼いでいるソーシャルメディアを無制限に保護する通信品位法230条の改正についても、議会とは異なる立場から提言している。