
Julian E. Zelizer著「In Defense of Partisanship」
二大政党のあいだの熾烈な党派主義のせめぎ合いが政治の停滞をもたらすなか、政治歴史学の重鎮が党派主義が発達した歴史を振り返るとともに党派主義のあるべき姿を訴える短い本。
むかしの政治は良かった、二大政党がお互いを否定するばかりでなく議論を通して歩み寄り妥協点を見出しさまざまな法律を成立させてきた、という話はよく聞くが、実際のところそれは黒人や女性らを排除した白人男性同士による馴れ合いでしかなかったし、政府の助成金を駒として分け合うかたちで実現してきたものであり、それほど良いものでもなかった。そもそも1990年代にニュート・ギングリッチが強硬な党派主義を打ち出し共和党を躍進させ、そのまま政治を機能不全に追い込むまで、長らくアメリカの政治は民主党による覇権が続いており、どんな譲歩をしても権力の構図が安泰であることを前提として両党で利権を分け合っていただけの話。現在のように勢力が拮抗していると、協力して何らかの政策を実現させることより、少しでも相手の足を引っ張って失点させることが得策になってしまう。
よく言われるとおり、党派主義の先鋭化は二大政党の双方で同じように起きているわけではない。ギングリッチ以来、独自のメディア環境を抱え込んだ共和党の側が一方的に党派主義を過激化していき、それに迎合したクリントン政権、協調を呼びかけて手酷く裏切られたオバマ・バイデン政権の民主党がそれに引きずられるかたちでより党派的になりつつある。党派主義の行き過ぎを食い止めるために著者が提案する案の多くはほかの論者らによってさんざん主張されてきたもので、それを党派主義的な議会によってどう実現するかという問題があるのだけれど、おもしろいと思ったのは著者の言う、政党はもっと人々の生活に根ざすべきだという主張。
現代の人々にとって政党とは、ワシントンDCでくだらない争いを続けていて、選挙のたびに投票を呼びかけてくる遠い世界の存在になってしまっているが、これはかならずしも普遍的なものではない。かつてニューヨークやシカゴで公務員の職の分配を通して市政を支配し選挙で無敵を誇ったマシーン・ポリティクスは行き過ぎだとしても、政党は全国的に支部を抱える組織として選挙や政策以外の面でも人々の生活に寄り添えるはず。たとえばこれを書いているいま(2025年11月)現在、連邦政府閉鎖により食糧支援が凍結され多くの人たちが食糧難に苦しんでいるが、民主党は食糧危機をトランプ政権を攻撃するための道具として扱うのではなく、いますぐ全国の組織をあげて食糧の無償配給をはじめるべきだ、という意見があった。実際2020年の大統領選挙では、民主党予備選に立候補していたバーニー・サンダースの陣営はコロナウイルス・パンデミック初期、組織を動員して自宅で待機している高齢者らへの食糧の配達を行った。そういう形で人々の生活に関わってこそ、政治をスポーツの勝ち負けのように扱うメディアの影響下を逃れ、政策実現のための組織として必要な支持を集めることができるというのは本当にそうだと思う。