Lamya H著「Hijab Butch Blues: A Memoir」

Hijab Butch Blues

Lamya H著「Hijab Butch Blues: A Memoir

南アジアで生まれ仕事を求めて中東に移住した家族に育てられたムスリム女性がレズビアンであることを自覚し、同性愛が犯罪とされる国に住む家族にカミングアウトできないまま、留学先のアメリカでコミュニティとパートナーを見つける自叙伝。レスリー・ファインバーグが20世紀中盤の労働者階級のレズビアンコミュニティを描いた自伝的小説「Stone Butch Blues」を連想させるタイトルを見た瞬間からこれは絶対面白いと確信したけど、思っていた以上に良かった。

前述のとおり著者は南アジアで生まれたが、幼いうちに家族とともに中東のある国に移住する。裕福なその国では海外から移住労働者を呼び込んでおり、著者が通うイスラム系の学校ではさまざまな国から来た労働者の子どもたちがいた。しかし外国人労働者たちは頻繁に職を変え家族ごと引っ越すので、子どもたちは長期的な友情を維持することができない。著者は学校では好きな男子やファッションの話で盛り上がる周囲の女子たちに馴染めず、近所の公園では肌の色の浅いアラブ人の子どもたちと遊ぶことを禁止される。同性の先生に憧れてわざと彼女のコーヒーに塩を入れるなどいたずらをしたり、気になるクラスメイトの女子にどう接していいか分からなかったり。

その国では外国人である彼女は大学に進学することができず、また生まれた国には家族や親戚など頼れる人がまったくいなかったので、著者は頑張って奨学金を勝ち取ってアメリカの大学に進学する。9/11同時多発テロ事件のあとのアメリカは彼女のようなヒジャブを着けたムスリムへの偏見が激しく、大学構内で頻繁に警備員に身分証明書を見せるよう言われるなどの経験も。次第に自分がレズビアンだとはっきり自覚し、クィア・ムスリムのための集まりなどに参加するようになるも、同性愛が禁止されている国に住む家族にも、かれらに話が伝わってしまいかねないアメリカ在住の親戚やモスクの人たち(一部を除く)にも、カミングアウトはできない。

20代の彼女は、異性愛者の女ともだちから親密な相談を受けたりデートっぽいお出かけしたりお泊りされたりイチャイチャ体や髪を触られたり「あなたが男だったら結婚したかった」と言われるなどするなか、次々に彼女たちに恋をしては告白もしないまま失恋を繰り返す。女ともだちから見ると、彼女が同性だからこそ面倒なことにならないと思って安心してイチャイチャしていたわけだけど、見かねたクィアの仲間から「あなた、なんでクィアの子とデートしようとしないの?」と聞かれ、クィアな子とデートすると本当に自分はレズビアンなんだと認めなくちゃいけなくなるのが怖かったし、異性愛者の子とうまくいかなくても「彼女は男が好きなんだから仕方がない」と耐えられるけどクィアな子にフラれたら耐えられないと思ったからなのでは、と自覚。このあたり、わかるわかるーとめっちゃ共感できるし、いじらしいどころか微笑ましいを通り越してもはや愛おしいくらい。

で、クィアな子とデートしようと出会い系アプリを使い始めるのだけれど、最初のデートでいきなり相手が同じタイプのレザージャケットとジーンズ着たブッチでどっちが先にドアを通るか(どっちがドアを押さえてレディーファーストするか)とかどっちが奢るかで競争してしまったりとか、レズビアンデートあるあるの連発。もうデートやめた、猫と一緒に一生生きていく、と思いながら行った最後のデートでようやく趣味や考え方がマッチするパートナーと出会って、えー良かったじゃんーとわたしまで泣きたいくらい嬉しくなった。

著者は人生のさまざまな場面で悩んだり困ったりするたびに、コーランの逸話を引用してそこから教訓を得たり、同じ苦しみを経験した過去の人物の話に寄り添ったりする。彼女が育った中東の国ではヒジャブの着用が普通だけれど、もともと生まれた南アジアの国ではそれほど一般的ではなく、彼女がクィアであることを知らない家族は彼女のことを古臭い信仰に従う古い女性だと見なしている、というのが皮肉。彼女がフェムっぽく着飾らないのは彼女が敬虔なムスリムとして慎み深くしているからだ、と勝手に解釈してくれている様子。

ヒジャブを着けた敬虔なムスリムで南アジア系の移民でブッチレズビアン、そして政治的にアクティヴなベジタリアンとして、差別や抑圧への怒りで身動きが取れなくなることもあった20代からコミュニティに支えられ戦うべき場面を選べるようになった30代への成長を描いた、とても親しみを感じられるメモワール。クィア女子みんなに読んでほしい。