Kaya Oakes著「Not So Sorry: Abusers, False Apologies, and the Limits of Forgiveness」

Not So Sorry

Kaya Oakes著「Not So Sorry: Abusers, False Apologies, and the Limits of Forgiveness

カトリック家庭で育った宗教ジャーナリストの著者が、アメリカ社会における「許し」について宗教の影響とともに考える本。キリスト教の価値観はアメリカ社会における「許し」の考え方に強い影響を与えてきており、キリスト教徒以外の人も無関係ではない。

キリスト教の教義において、どうしようもなく罪人である人々は神に許しを求めるほかない。カトリック教会では神の代理人である神父に罪を告白し懺悔する伝統がある一方、プロテスタント教会では人々が直接神に許しを求める仕組みになっているが、本来なら許されざる人間が神の許しを得ようとするなら、同じ人間に許しを求められた人はそれを断ることができない、断るべきではない、なぜなら自分も神に許してもらわなければいけないからだ、という倫理が生まれた。間違いを犯した人が真摯にそれを悔い謝罪するのと引き換えに、被害を受けた人はそれを許すべきだ、という価値観はキリスト教に限らず世界中の多くの宗教に存在するが、これが形式化すると、間違ったことをした人はただ謝ればそれでよく、謝罪を受けれないのは罪だという犠牲者非難の論理に変質してしまう。

2015年にサウスカロライナ州チャールストンで白人至上主義者が黒人教会で銃を乱射し牧師ら9人の犠牲が出た事件(Cody Keenan著「Grace: President Obama and Ten Days in the Battle for America」参照)では、犯人の裁判に出席した被害者の遺族たちが次々と犯人に対して「あなたを許します」と発言し、これこそキリスト教信徒のあるべき姿だと称賛されたが、かれらの期待に反して犯人は白人至上主義の信念を曲げず、白人文化を守るために必要な行動だったと主張し続けた。また、世間の話題はかれの行動の背後にある白人至上主義やそれを煽ってきた右派メディアや政治家ではなく、「従順な」黒人たちの称賛に向かってしまい、社会は白人至上主義と向き合う機会を失った。実際には犯人を許さなかった遺族もいたのに、かれらの声はまったく届かなかった。

「許し」の行為を道徳的に称賛することで被害者に「忘れろ、未来を見ろ」と強要し、加害者の責任追及を放棄する危険は、カトリック教会だけでなく多数の宗派やエンターテインメント業界その他企業社会、スポーツ、学界、ほかあらゆる分野においてmetooの掛け声とともに噴出した性暴力の問題でも明らかだ。力のある人たちによる性暴力が内部でもみ消され、声を上げる被害者の側が排除されてきた背景には、被害の事実そのものの否定とともに、被害事実があったとしても加害者が反省しているから許すべきだ、という価値観が都合の良い言い訳を提供してきた事実がある。立場の弱い人たちは自分たちに対する攻撃を常に「許す」よう求められる一方で、自分たちの間違いは社会に断罪される。

偽りの「許し」の弊害についてはMyisha Cherry著「Failures of Forgiveness: What We Get Wrong and How to Do Better」やEmily Joy Allison著「# ChurchToo: How Purity Culture Upholds Abuse and How to Find Healing」などの本でも論じられていたが、本書はキリスト教の教義に踏み込み、イエスの「許し」が一般に思われているほど単純なものではないことが語られている部分が新鮮だった。