Jessica Slice著「Unfit Parent: A Disabled Mother Challenges an Inaccessible World」
前著「Dateable: Swiping Right, Hooking Up, and Settling Down While Chronically Ill and Disabled」で障害者として恋愛やセックスしたり結婚する相手を見つけることの困難について多数の当事者のインタビューをもとに論じた著者が、障害者による子育てについて書いた本。しかし障害者や子育てをしている人だけに限らず、身体を持つ全ての人に関わる壮大な話となっていて、前著よりはるかに深い。
著者は2011年まではアウトドアが好きな若く元気な健常者の異性愛白人女性だったが、ギリシャでハイキングをしている最中に受けた過度のストレスをきっかけに体位性起立性頻拍症候群(PODS)が発症、立ったり歩いたりすることも困難な生活がはじまる。障害者となったことにより、自分の体は自分が思ったとおりに動かせるしコントロールできる、自分は自立して生活できている、今日できることは明日もできるし、今日できないことも地道に訓練すればできるようになる、などといった、若い健常者の人たちが当たり前のように無意識に受け入れている前提が覆され、自己像を脅かされることに。しかしそこから著者は障害者権利運動そしてディスアビリティ・ジャスティスの運動に出会うことで、障害者こそがすべての人の身体は頼りなく脆弱であることや、どんな人も周囲の人たちと支え合わないと生きていけないといった真実を知っており、自分たちの身体にフィットするようには作られていない社会の仕組みを創意工夫と相互扶助で生き延びていることを学ぶ。
障害のない若い人たちが身体の脆弱性や予測不可能性、周囲の人たちの支えの必要性を実感する最も一般的なきっかけは、妊娠・出産の経験だ。体は外見的にも内面的にも変化して思うとおりにならないし、当たり前にできると思っていたことが難しくなって周囲の助けが必要になったりする。それは出産後も続き、親として子どもを育てる––多くの場合、出産した母親がそのまま育児の主体となる––なかでも、自分の身体の延長のように常に自分のそばにいる幼い子どものために十分な睡眠時間や休養が取れなかったり、行動が制限されたりする。著者は多くの親たちに取材した経験から、幼い子どもを育てている障害のある親がそうでない親に比べて子どもの誕生による生活の変化に苦しんでいないとして、それは障害者たちは妊娠・出産以前から自分の身体が思うようにならなかったり行動に制約があることに慣れているからだろうと指摘する。
著者は障害のために妊娠・出産は命にかかわると医師に言われ、パートナーの男性とともに黒人の幼児の里親になることを選んだけれど、当初は「親に恵まれない子どどもに家庭を与えたい」という善意に満ちていた彼女もDorothy Roberts著「Torn Apart: How the Child Welfare System Destroys Black Families—and How Abolition Can Build a Safer World」などを読み、里親を必要としている子どもたちの大多数は孤児でも虐待を受けていた子どもたちでもなく、貧困や偏見により親から引き離された子どもたちであることを知り、ショックを受ける。
さらに著者が学んだのは、障害のある親はそれだけで「子どもの面倒を十分に見ることができない、親にふさわしくない」として病院によって児童保護局に通報されることも多いという事実。障害のある親は一般的なベビーカーを押せなかったり食卓のセットアップが一般とは異なっていたりするけれど、障害があっても子どもの面倒をみることができるようにと行っているさまざまな工夫が、家を訪れた調査員によって「普通の育児ができていない」と判断され、子どもを連れて行かれたりする。そもそも障害者が子どもを持つこと自体を良く思わない人が医療関係者にも少なくなく、子どもに障害が遺伝するかもしれないのに出産するのは虐待であるとして通報されたり、騙されて親権放棄させられたり不妊手術を受けさせられたりすることもある。コロナウイルス・パンデミックにおいて医療が逼迫すると障害者の患者が後回しにされたように、障害者は幸せに生きることができない、他人に迷惑をかけながら生きるべきですらない、という優生主義はいまも健在。
たしかに障害のなかには身体的・精神的な苦痛を伴うものもある。しかし障害者が経験している苦痛の多くは、障害者の身体や精神にフィットしない社会の設計や、そうした設計を許容する文化や社会制度の問題だ。人はどれだけ健康でも長生きすればいつか身体が思うように動かなくなるものであり、身体が思い通りにならないのは、そして周囲の人たちの助けを必要とするのは、すべての人にとっての宿命。それを早いうちから知っている障害者は、思い通りにならない、他者のケアを必要とする身体を持ちながら幸せを求める方法をより深く知っている、と著者は言う。
大人になってから障害者となり、その後親として子どもを育てた著者自身の経験と、多数の子育てをしている障害者たちへの取材、そして障害者運動やディスアビリティ・ジャスティスに参加している人たちとの対話をもとに書かれた本書は、障害のある親たちが経験している社会的・制度的な障壁や偏見についてだけでなく、社会の設計から排除された障害者たちがどのようにして創意工夫や相互扶助によって幸せに生きようとしているか、そして全ての人たちがより幸せに生きるために障害者たちからなにを学べるかが書かれていて、とにかくすごい。前著でも著者は、障害者はそもそも一般的な(ヘテロノーマティヴな)性愛や家族のあり方から排除されているからこそ、クィアやキンク、ノンモノガミーなどの実践に踏み出すことができる、といったことが書かれていたが、本書はさらにその先に行っている。障害者じゃなくても子育てしてなくても得ることがある本だと思う。