Gabe Henry著「Enough Is Enuf: Our Failed Attempts to Make English Eezier to Spell」

Enough Is Enuf

Gabe Henry著「Enough Is Enuf: Our Failed Attempts to Make English Eezier to Spell」

ベンジャミン・フランクリン、チャールズ・ダーウィン、マーク・トウェイン、セオドア・ルーズヴェルトら錚々たる各分野の著名人・知識人たちが、一貫性がなく複雑過ぎる英語のスペリングを改革しようとして敗北していった歴史についての本。

英語を外国語として学習した人だけでなく英語を母語とする人にとってさえ、英語のスペリングは異様に難しい。同じ文字やその並びで発音が違ったり、発音が同じなのにスペリングが違ったりすることが多々あり、一貫したルールが見られない。というよりルールらしきものはあるのだけれど、例外が多すぎるせいで合理的に考えようとするとかえって混乱してしまう。

啓蒙主義の時代以降、英語のスペリングにきちんとしたルールを持ち込み、発音と一致するようにし、なんならいらないアルファベットの文字をいくつか廃止して、逆に簡単なスペリングで全ての英語の音を表現できるように必要な文字をいくつか追加しよう、みたいに考える人が出てくるのも当然。それに対して実際には自然に使われるなかで「正しいスペリング」は常に変化してきたことを無視して「伝統的な英語を守れ」と反発する人たちが出てきて抵抗するのもパターン。まあ結局そういう試みは一時的に注目を集めても、結局定着せずに敗北していく。名だたる有名人たち(ほぼ白人男性限定)が自分こそは英語のスペリングを改革すると言い出してきて、シカゴの新聞社のオーナーは自分が所有する新聞の紙面でそれを広めようとまでしたけど、それでもやっぱりうまくいかない(でも野球チームのシカゴ・ホワイトストッキングスのことをホワイトソックスと短く表記したところチームの側がそれに倣って改称したという成果はあった)。

本書の2/3くらいはそういう英語のスペリング改革の失敗の歴史について書かれているのだけれど、残りは速記法の一種として考案された新たな英語の表記方法だとか、ミュージシャンやラッパーが広めたyouをU、toを2で代用するなどの表記、ハッカーコミュニティで広まったリート(l33t)表現、テキストメッセージやネットスラングで使われる短縮表記やさらには絵文字まで、近年人々が英語を表記するために生み出してきたさまざまな表現についてもまとめている。これらの多くは既存の英語を置き換える目的で提唱されたわけではなく、あくまで人々が自分の用途や自己表現、コミュニティへの帰属、そして技術的な制約(たとえば、それほど遠くない過去には、テキストメッセージに文字数制限がありメッセージ毎に課金されたので、短縮した表記が使われた)などにより使われだしたもの。英語のスペリングを改革しようという上からの意図的な試みが失敗する一方、下から生まれる新しい表現はそれなりに広まり一部は定着しているというのがおもしろい。

もう一つおもしろいと思ったのは、教育のなかでスペリングをどう教えるかという部分。アメリカでは子どもたちが単語を正しく綴ることができるか競うスペリング・ビーが競技イベントとして定着しているが、逆にいうとそれだけ英語のスペリングが難しいということでもあり(そして問題に出される単語のチョイスが意地悪なんだよこれが…)、文字に対する苦手意識を生み出している側面も。学校教育でそんなに時間をかけてスペリングを教えているのは無駄だから、というのがスペリング改革を進める一つの理由(スペリングを単純化すれば暗記しなくてよくなる)なんだけど、それに対して「子どもがスペリングを間違えても別に良くね?」という立場もある。子どもの言語習得について研究した教育学者のキャロル・チョムスキー(ノーム・チョムスキーのパートナー)は子どもがスペルを間違えるとき、そこにスペリングを丸暗記しようとするのではなく自分なりに言語の複雑な構造を理解し答えを導き出そうとする意思を見出し、スペルが正しいかどうかではなくその学習を評価し支援すべきだと主張した。

前から言っているようにわたしは英文法オタクなので、こういう本は大好きなのだけど、日本語をメインで生活している人に刺さるかどうかは分からない。まあ英語って英語を母語とする人にとってもめっちゃ難しいんだよ、と安心できるかもしれない。ちなみに、英語しか話せないアメリカ人の中には「英語は世界の言語のうちで一番難しい」と信じ込んでいて、さらに何故か誇らしげにしている人がいて、なに言ってんのバカなの?ってそういう発言を聞くたびにいつも思っている。