Caleb E. Campbell著「Disarming Leviathan: Loving Your Christian Nationalist Neighbor」
本来のキリスト教の教えとはかけ離れたキリスト教ナショナリズムが周囲の信仰者たちを巻き込んでいっていることに気づいた牧師が、かれらを本来のキリスト教に取り戻すための方法を考える本。
著者はアリゾナ州フィニックスにある特定の宗派に属しないキリスト教会の牧師だが、信者や知り合いの牧師、全国団体などから、Kyle Spencer著「Raising Them Right: The Untold Story of America’s Ultraconservative Youth Movement and Its Plot for Power」で分析対象となっているTurning Point USAなど保守政治団体が各地の教会で開催しているイベントに呼ばれるようになる。
著者の経験上、アメリカの教会は直接政治に関わることを避ける傾向があり、選挙候補者などにプラットフォームを提供する場合でも牧師が出ていって最初に挨拶したあとは政治の話には関わらないことが多かったが、かれが実際に参加したそれらのイベントは政治と宗教が一体となったものであり、政治活動家と牧師がともにリベラルや民主党を攻撃し愛国的な信仰者たちに抵抗を訴えるものだった。しかもその内容は、アメリカは神に祝福された特別な国でありキリスト教を国教にすべきだとか、アメリカの文化を壊そうとしている移民を排斥しフェミニストやゲイ・トランスたちを叩き潰せ、銃規制を一切許すな、富裕層への徴税は十戒で禁止された盗みの一種だから認めるな、といった具合に、政教分離というアメリカの政治的伝統とも、隣人を愛し貧しい人に施せというキリスト教の伝統的な教えとも異なるもの。
こうした間違った考え方が自分の教会の中にまで広がってきていることに気づいた著者は怒り、キリスト教ナショナリズムの過ちをどうやって証明してやろうか、と思い始めたが、そうした思想を受け入れている人たちの多くがただ信仰を大切にして正しく生きようとしているだけであることにも気づき、考えを改める。キリスト教を知らない人たちに宣教師たちが布教するように、自分も本来のキリスト教の教えをかれらにあらためて布教する必要があるのではないか、そのためにはかれらの考えを頭ごなしに否定するところから入るのではなく、かれらを理解し共通点を探り、自分の生き方を通してかれらとともに考えていく姿勢を見せることが必要なのではないか、と。言葉も歴史も異なる異文化で布教している宣教師たちの活動に比べればよっぽど簡単じゃないか、と著者は考える。
著者は宣教師たちから学んだ、現地の文化や伝統を一方的に否定してはいけない、それは植民地主義であって宣教ではない、という言葉を引き、自分もキリスト教ナショナリズムの信奉者たちに対して宣教者であろうとするのだけれど、実際の歴史における植民地主義において宣教師たちが果たした役割はただ単に「現地の文化や伝統にリスペクトが足りなかった」ことだけではないし、宣教と植民地主義の密接な関係を軽く見すぎているように思う。そして実際にキリスト教ナショナリズムの信奉者とどういう風に会話するのか、という例を見ていくと、キリスト教ナショナリズムの明らかに歴史的に間違った主張に対して「間違っていると言ってはいけない」、政教分離であるべきだとか警察予算を削減しろと言ってはいけない、などと繰り返したりと頼りない。著者にとっては歴史的に何が正しいかはどうでも良いんだろうし、キリスト教がアメリカ人全員の信仰になれば良い、という部分ではかれらと理想を共有していて、しかしかれらの考えるキリスト教は教義的におかしいよね、という些細な違いしかないように思えてくる。それで殺される移民や女性、クィアやトランスジェンダーの人たちはどうなるんだよと。右の頬を打たれて左の頬を差し出すのは勝手にやってくれていいけど、実際に打たれているのは著者ではなく別の社会的弱者やマイノリティなんですけど?という疑問が残る本だった。