Adrian Daub著「The Cancel Culture Panic: How an American Obsession Went Global」

The Cancel Culture Panic

Adrian Daub著「The Cancel Culture Panic: How an American Obsession Went Global

アメリカの右派メディアによって広められた「キャンセル・カルチャー」に対するモラル・パニックが世界各地にどのように波及したか、それぞれの国のローカルな政治とどのように絡み合ってアメリカのものとはまた異なるモラル・パニックを生み出しているか調査した本。おもしろい。

文化におけるキャンセルという言葉はもともと、好きだった作品や作家、アーティストらに失望したとき、「もう〜は観ない、聴かない」という意味で主に黒人たちのあいだで使われていた言葉。2010年代にブラック・ライヴズ・マター運動やmetoo運動を経て差別的な言動や性的加害行為に対する批判が広まった際、それへの反発としてそれまでの「政治的に正しい(PC)」という言い回しに代わって「キャンセル・カルチャー」が右派による攻撃の対象となった。しかし実際のところ「キャンセル・カルチャー」が何を意味するのか厳密には規定されず、ソーシャルメディアで差別体な発言をした一般人の職場に抗議して職を奪う行為から権力者による性暴力の被害の訴えまで広く「差別や暴力に対する批判」がひとまとめにされた。

アメリカにおいて「キャンセル・カルチャー」がはびこっているとして批判の対象となったのは、大学のキャンパスだった。右派的なスピーカーに対する抗議や学内での反差別の呼びかけなど、その行動を行っている主体が誰なのか(大学当局のポリシーなのか、どこかの部署が作ったパンフレットなのか、あるいは学生団体や学生個人の声明なのか)、どういう強制力を持っているのか区別せず、またそれがどれだけ普遍的な出来事なのか突発的なハプニングなのか、あるいはそもそも事実なのかどうかすら吟味されないまま、大学では保守派の言論の自由が奪われている、反差別の名目のもとに言論が統制されている、として、逆に教育機関における反差別の取り組みを禁止したり歴史教育や図書館の蔵書を検閲するといった過剰な反応が右派によって進められた。問題とされているものの曖昧さと釣り合いに欠けた過剰な反応は、これがモラル・パニックであることを示している。

こうして「キャンセル・カルチャー」批判がモラル・パニックであることを示したのち、本書は各国にそれがどのようにして紹介され、それぞれ自国でも起きつつある、あるいは起きるおそれがある問題として論じられたのか分析する。イギリスやフランス、ドイツといった西欧諸国から、ロシア、トルコ、オーストラリア、ブラジルなどさまざまな国において、それがアメリカと同様にアカデミアの問題として論じられたり、映画など文化の問題として論じられたり、あるいはロシアに顕著なように国家自体がキャンセルの対象とされているとされたりと、キャンセル・カルチャーの対象とされるものが異なったり、ジェンダーやセクシュアリティ、人種などキャンセル・カルチャーが猛威を振るうとされているテーマが異なったり。フランスの人たちが「愚かなアメリカに特有の現象」としてキャンセル・カルチャーをバカにしつつ、同時にそのアメリカ由来の「ウォーク」によってフランス文化が侵食を受けることを危惧したりとか、フランス人(白人)ブレねーなとしか。

キャンセル・カルチャーの害悪をそれぞれの国で宣伝しているのはやはり各国の右派勢力で、同じ媒体が短い時期に何十本もの記事を掲載してパニックを煽るのもアメリカの右派メディアと同じ。日本についての記述はないけれど、なんだかどこかで見かけた日本語の記事の記憶のあれこれを思い出した。それにしてもアメリカ右翼、世界的に迷惑だなあ。