Pagan Kennedy著「The Secret History of the Rape Kit: A True Crime Story」
性暴力の被害者から加害者の特定と犯行の証明につながる証拠を採取するための医療パッケージ、通称レイプキットの発明と普及、その社会的影響とレイプキットの採用だけでは解決できないさまざまな社会的課題についての本。
レイプキットは長らくシカゴ警察の科学捜査官によって発明されたと言われてきたが、実際には自身も性暴力サバイバーで被害者たちへの支援の拡充を求める運動をしていた女性活動家のマーティ・ゴダードさんが発案し原型を製作、1970年代はじめ頃にシカゴ警察にそのアイディアを持ち込んだことが近年明らかになっている。ゴダードさんは被害者が勇気を出して性暴力を通報してもまともに捜査されず、逆に被害者が警察によって説教されたり、性的な言葉や態度を向けられるなどといった現実に憤り、性暴力を犯罪として扱ってもらうためには犯行の証拠を保全するためのキットが必要だと考えた。しかしその後レイプキットが広く採用されるようになってもゴダードさんの貢献は最近まで忘れ去られ、彼女自身もアルコール依存や精神疾患に苦しみ、家族とも離反し2015年には無名のまま亡くなる。
全国の警察がせっかく被害者から採取したレイプキットを長年なんの分析もしないまま大量に倉庫に保管していることが騒がれだした2010年代、性暴力サバイバーでもある著者はレイプキットについて調べるうちにゴダードさんの功績を知り、彼女にインタビューしようと彼女を探し始めるが、家族や当時の友人たちからも関係が絶たれたゴダードさんへの手がかりが見つかったのは彼女が亡くなったあと。性暴力の訴えを「証拠も第三者による証言もない不確かで立件できない一方的な主張」から「科学的な捜査によって加害者を処罰することができる犯罪の告発」への変え、性暴力に対する社会的な態度を大きく変えたゴダードさんの功績が認められるようになったのは少し遅すぎた。
レイプキットの証拠能力は、とくにDNA鑑定の技術が確立された以降はさらに確固としたものとなり、加害者の特定に貢献しただけでなく、黒人男性を中心に無実の罪で有罪判決を受けた多数の冤罪被害者たちの釈放・名誉回復が行われた。犯人のDNAが保存されていて再検証が可能な事件は性暴力事件以外では少なく、人種差別的な司法制度による冤罪の多発といった問題の解決には程遠いもの、少なくとも一部の加害者の責任追及や、一部の冤罪被害者の救済に繋がったのは事実。
とはいえ性暴力被害者のうち、被害を警察に届け出たり病院で検査を受ける人はごく少数だし、被害を受けたばかりなのに病院でまた自分の体を他人にさらけ出して証拠収集をさせることが平気な人はほとんどいない。性暴力被害者の感情的ケアを行いつつ証拠収集ができるSANE看護師は大都市以外には少なく、何時間も病室で待たされたり、性暴力サバイバーへのケアを全く知らない、あるいは多忙によりケアを行うことができない医師や看護師による証拠収集の際に無神経な言葉や態度に傷つけられたり、着ている服を全部証拠として取り上げられ家まで病院着で帰れと言われるなど、レイプキットの実施においてもトラウマを重ねることが少なくない。
こうした現実から、病院に行かずとも自宅で証拠保全が行われるセルフ・レイプキットなるものも一部で開発され、なかにはヴェンチャーキャピタルから資金を調達した人もいたけれど、自分自身で採取したものが裁判で証拠採用されるかどうかは微妙。自宅でできるレイプキットは証拠として意味がないとして専門家たちから無責任だと非難されたが、コロナウイルス・パンデミックによりロックダウンが行われリモート医療が急激に普及すると事情が変化してくる。性暴力被害を届け出た人の自宅に警察官がレイプキットを届け説明書とともにドアの外に置きそのまま待機、部屋の中ではサバイバーが看護師とビデオチャットしながら証拠採取して終わったらドアの外に置いて警察官に回収させるといった試みも。ビデオチャットしていた事実、警察がレイプキットを届けて回収した記録などにより証拠能力を確保しようとしたわけだけれど、パンデミックでなくともサバイバーの大半は病院に行って証拠保全を行うよりは、自宅にSANE看護師に来てもらえたほうがずっといいはず。
サバイバーたちが、加害者の責任を追求したい、そして加害者がさらに別の人を傷つける前に止めたい、という思いを抱え、相当の覚悟をもって証拠採取を受け入れたというのに、そうして採取された証拠が何年にも渡ってなんの分析もされずに大量に倉庫に保管されていたという事実は、警察による性暴力の軽視が過去のものではないことを物語っている。そういえばわたしが住むシアトル市でも数年前、メディアによって暴露されるまで1年半ほど「予算が足りないから」と警察があらゆる性暴力事件の捜査を全面的に停止していたことがあった。その後放置されていたレイプキットのDNA解析は進み、多くの事件で犯人が特定されたり無実の罪で捕まっていた人の冤罪が晴れたりしたと同時に、性暴力のパターンについて多くの新たな事実が判明した。たとえばなんの関連性も見出されていなかった各地で起きた性暴力が同一犯によるものだと分かったり、特定の恋愛対象だけを襲う犯人と不特定多数の被害者に加害する犯人は別のタイプだと思われていたけれども実はそれらはかなりの部分共通していると分かったり。
わたしは刑事司法制度がどれだけサバイバーに寄り添おうとしても、大多数のサバイバーたちは警察による解決を望まないと考えているし、サバイバーたちが本当に望むものは刑事司法制度によって実現しないと思うけれども、現実に刑事司法制度に頼ろうとしているしているサバイバーたちはいるのに、そういった人たちを刑事司法制度の限られた枠組みの中ですら支えることができない現状は悲惨だとしかいえない。レイプキットの発明は重要な歴史的成果だけれど、本当に必要なのはハードウェアやテクノロジーではなくそれが運用される社会のあり方だと思う。