Liz Bucar著「Stealing My Religion: Not Just Any Cultural Appropriation」

Stealing My Religion

Liz Bucar著「Stealing My Religion: Not Just Any Cultural Appropriation

宗教学者で宗教倫理家の著者が、宗教的なシンボルや行為の盗用について三つの具体例を取り上げて論じる本。論じられているのは、ムスリム女性への連帯のためにムスリムではない女性がヒジャブをかぶる行為、カトリックではない人によるサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路への参列、そして米国で健康のために広まっているヨガの三つ。

それぞれについての詳しい議論はとてもおもしろいのだけれど長くなるのでここでは踏み噛まない。ただし、そうした「宗教の盗用」が行われる背景には、ドグマや権威主義、禁欲など望ましくない要素と結びいた「宗教」を否定しつつ、生きる意味や大いなるものへの畏怖など望ましいとされる要素を感じる「スピリチュアリティ」を重視する、「宗教的ではないけれどスピリチュアル」と自称する人たちの増加があると著者は指摘。また、そうした個人主義的なスピリチュアリティがアメリカに広まった背景には、教会の権威を認めず個人が直接聖書を読み神と繋がることを推奨したプロテスタンティズムの信仰があり、その意味からは「宗教的ではないけれどスピリチュアル」はプロテスタンティズムの延長線上にある、アメリカにおいて覇権的な宗教的な態度とも言える。

「宗教的ではないけれどスピリチュアル」を自称する人たちは、既存の宗教が指し示す総合的な価値観や世界観をまるごと受け入れるのではなく、その中から自分にとって役に立つパーツだけを選び取ってミックスする道具主義的なふるまいを当たり前に行っており、だから自分が信仰しているわけではない宗教のシンボルや行為を躊躇なく自分のスピリチュアリティに取り入れることができる。そうした行為は必ずしも盗用には当たらないが、それが既存の権力関係のなかで立場の弱い人たちに害をなす場合、それは文化的盗用と同等に非難されるべきだと著者は言う。ここで言う「立場の弱い人たち」というのは必ずしも盗用された宗教集団の人たち全員という意味ではなく、たとえばその宗教集団の中の女性や少数民族だったり、あるいはその宗教集団によって圧迫されている別の集団である場合もある。いずれにせよ、宗教的なシンボルや行為をそれが生きられている文脈から切り離し、カフェテリアのメニューのように好きに選び取ることができるアイテムとして扱うことは、それ自体が宗教的に生きている人たちに対する侵害行為となる恐れがあり、それが既存の権力関係と重なった場合に多数派から少数派への暴力となりかねない。

ヨガについての議論では、ヨガがインドのモディ首相らヒンドゥー原理主義的な政治勢力によってムスリム排斥に利用されている一方、アメリカではヨガのコミュニティがパステルQアノンと呼ばれるQアノンに隣接した陰謀論の温床となるなど、個人が自分の判断でスピリチュアリティをアレンジする発想がメディアや専門家を無視して自分自身の真実を求めよというQアノンの姿勢と親和性が高いことも指摘されている。

ただ、著者が一貫して「文化の盗用は批判されるのに、宗教の盗用は批判されない」として、文化の盗用を批判しているリベラルが宗教に対しては盗用を行っている、といった批判をしていることは納得がいかない。非ムスリムによるヒジャブ着用を批判したのは普段から文化の盗用を批判している黒人ムスリム女性たちだし、宗教的ルーツを抹消したヨガのあり方についての批判も文化の盗用の一種として批判されている。宗教の盗用を平気で行っているような白人リベラルや白人フェミニストは、そもそも文化の盗用についてもそんなに敏感ではない。「人種差別は許されないのに〜差別は許されている」というのはあまり社会的に意識されていない差別を告発するためによく使われる論法だけれど、そういうことを言うのはだいたい白人で、その人が人種差別についての認識を欠いているだけの場合が多いように思うのだけど。