CeCé Telfer著「Make It Count: My Fight to Become the First Transgender Olympic Runner」
ジャマイカ出身のトランスジェンダー女性陸上選手の著者による自叙伝。著者は東京オリンピックでアメリカ代表選出を目前としたところで、トランス女性だけに適用される理不尽なルールや書類の書式などに阻まれて出場を逃した。
著者はシングルマザーの母のもと、ジャマイカで生まれ育つ。自分のことを心の底から女の子だと信じていてどうして周囲が自分のことを男の子として扱うのか理解できない著者は、学校の性教育でこれから女子は生理がはじまるという話を聞いて、そうなればやっと自分が女の子だとみんなに分かってもらえると思い、下校してすぐ母親にそう話すが、見たこともない速さで平手打ちを受ける。母は保守的な福音派キリスト教の熱心な信者であり、あなたは男の子だから生理は来ない、そんなことは二度と言うな、と厳しく言い聞かされる。
それでも姉の服を借りて家の外で着替えたり、女の子たちと化粧についてワイワイ話たりするなどしていたが、たびたびアメリカやカナダに出稼ぎに出ていた母に連れられてカナダの学校に通う機会を得る。母は仕事や住居が不安定で一家は引っ越しを繰り返したが、あるとき転校初日に女の子として自己紹介し、一週間ほどそのまま女の子としてともだちを作るなどしたが、どこからか学校にばれて家に連絡が。運良く姉が電話に出て母親には秘密にしてくれたものの、一週間女の子のふりをしていた男の子として激しいいじめにあう。しかしそういうなか、著者のことを理解して受け入れてくれる女のともだちも何人か出てくる。
その後一家はまたジャマイカに戻るが、インターネットで不特定多数の人たちが入るチャットグループを見つけた著者は、大人の男性たちが集まるチャットグループに入り男性とのセックスについて学ぼうとする。見つからないよう毎回ログを消すなどしていたが、ほかの人がコンピュータを使っているときにチャットグループで会った男性からメッセージが入り、母にゲイだと思われる。ジャマイカはキリスト教の影響により世界でもっともホモフォビックな社会の一つとされており、著者を守るためというよりは、一家まるごと周囲に排斥されないために、著者はアメリカの親戚に送られることになる。そこでふたたび著者は彼女に理解のある友人を見つけ、女性的な通名を名乗り、エストロジェンの服用もはじめる。
著者が陸上競技と出会ったのも幼いころ。ジャマイカは陸上競技がさかんな国で、国技とも言えるほど競技人口が多くレベルも高い。著者は幼いころから陸上の才能を見せ競技でも好成績をおさめてきたが、思春期を経て自分が男子と競争させらているだけでなく、自分が望まない男性的な名前でアナウンスされたり男性と更衣室を共用させられたりすることが精神的な負担となってくる。アメリカで入った大学ではハードル走の選手に選ばれ訓練するが、外見的に女子選手に見える著者が男性名で大会に出場すると奇異の目で見られたり、ホモフォビックな罵声を浴びたりするようになる。陸上競技を諦めようかと悩んでコーチに相談したところ、あなたがそう言い出してくれるのを待っていた、として支えてもらい、大学スポーツにおけるトランスジェンダー選手の規定に則り女子選手として競技に参加し、好成績をおさめる。
ところがその結果著者は世間の注目を集め、トランプ大統領の息子の一人がツイッターで著者の排除を主張する発言をすると、大統領本人を含め多数の人たちがそれをリツイートし、著者のもとには殺害予告や嫌がらせが殺到することに。おかげでしばらくのあいだボディガードが付けられ、公の場を避け選手たちが出席できるレセプションに参加することもできなくなる。さらに大学卒業後、オリンピックを目指してトレーニングを続けようとするものの、ほかの有力選手にはスポンサーがついたり有名なコーチが指導してくれるのに、著者に関わって叩かれたりキャリアをふいにしたりすることを恐れてスポンサーや指導者たちから見向きもされず、車の中で生活しながらアルバイトと訓練を両立させようとする。個人的に支援してくれる人もいたものの、うつ状態になるなど精神的に苦しむ著者は次第に孤立していく。
そこまでの犠牲を払ってオリンピックを目指した著者だったが、国際競技機関の規定によりトランス女性である著者は大会前12ヶ月にわたってテストステロン値が一定以下であることを証明することが義務付けられていた。シス女性でも人によってテストステロン値には幅があるのに自分だけがテストステロン値を計測させられ、一定値以下におさえるために副作用のある薬の服用を義務付けられるのは不公平だと思いながらも、オリンピックに出場したいがばかりにルールに従おうとする著者。しかしアメリカ国内の競技団体と国際競技団体のあいだでルールが違いしかもそのルールがどこにも公開されていないため直接連絡を取って送ってもらわなければいけなかったり、さらには自分のテストステロン値を証明する記録の単位がアメリカとヨーロッパでは異なり書式が違うと跳ねられたりして、最終的にオリンピック出場には間に合わなくなった。すると右派メディアでは「テストステロン値が規定を上回っていた」という事実に反する解説がなされたり、「女性を自認する男性、やっぱり本当は男性だった」と叩かれるなど、著者に対するバッシングに再び火がついた。
トランスジェンダー女性のスポーツ参加に関しては、漠然と「それまで普通の男性だった人が、ある日突然女性として女子競技に参加しようとしている」といったイメージで考えている人が多いように思うのだけれど、実際のところトランス女性はシス男性とは違うし、トランス女性が育ってきた環境や経験してきたことも人それぞれ。思い込みやイメージでいきなり議論をはじめるのではなく、現実に社会の理不尽な扱いに翻弄されている当事者の声に耳を傾けてほしい。せっかくこういう本を書いてくれているわけだし。