Amanda Ann Gregory著「You Don’t Need to Forgive: Trauma Recovery on Your Own Terms」
トラウマからの回復のために加害者を「赦す」必要はない、と訴える本。わたしの周囲というか界隈の常識だと「そりゃそーだ、当たり前」と感じるのだけれど、多くの人達が暮らす地域ではフェミニスト系のカウンセリングサービスやサバイバー支援サービスは存在せず、一番身近なカウンセリングといえば教会が提供している宗教的なカウンセリングサービスだったりするので、「トラウマから立ち直るには加害者を赦さなければならない」と信じ込まされている人は少なくない。本書はそういう人たちに対して、加害者に対する赦しは回復に必須ではないことを伝え、自分が何を望んでいるのかを重視するよう勧める。
キリスト教は人はすべてが罪人であり、神の赦しを請い得ることでしか救われることはないと説く宗教だ。神の赦しを得ようとするのであればわたしたちもお互いを赦し合わなければいけない、とは特に聖書には書かれていないのだけれど(むしろ逆に「人を赦すことができるのは神だけだ」として安易な赦し合いを否定する神学理論もある)、そうした解釈が多くのキリスト教会では一般化しており、それがキリスト教会内部における性虐待を隠蔽する口実として機能してきたことはEmily Joy Allison著「#ChurchToo: How Purity Culture Upholds Abuse and How to Find Healing」やGrace Ji-Sun Kim and Susan M. Shaw著「Surviving God: A New Vision of God Through the Eyes of Sexual Abuse Survivors」などで繰り返し指摘されてきた。この解釈において、加害者を赦そうとしない被害者は自分のわがままで信仰者としての義務を放棄していることとなり、結果として多くの人たちが追い立てられるようにして教会から離れていった。子どもを性虐待した大人が被害者ではなく教会のコミュニティに対して謝罪し、その直後に被害者の子どもに「ほら、赦しなさい」と無理やり加害者とハグさせるなど、どう考えてもこの教会終わってるとしか考えられない事態がそこら中で起きている。
このような悪習がいまも続く教会の多くでは、赦しは無条件で完全でなければいけないとされている。しかし著者は、仮にサバイバーが何らかの赦しを与えようと思ったとしても、実際にどういう意味で赦すのか、本人の希望に基づいて決めるべきだと訴える。たとえば「赦すけれど忘れない」というのも赦しのパターンだし、「赦すけれど二度と会いたくない」「赦すけど和解条件を飲んでくれ」などいろいろ考えられる。赦すかわりに相手になんらかの条件を飲ませる(同じ場所に近寄らない、など)のは良いアイディアに見えるけれど、実際のところそれは赦すかどうかの決定権を相手に譲り渡してしまうことにもなりかねないので、そのあたりも熟考が必要。いずれにせよ、「赦すのだから何も無かったことにして、以前と変わらず付き合う」というのは赦しの選択肢のうちの一つでしかなく、本人が希望するのでない限り他者が押し付けていいものであるはずがない。ましてや、赦さなければあなたは一生癒やされない、これからずっと辛い思いをしたくないなら全てを無かったことにしろ、という脅迫的行為は絶対許せないけど、これがいまのアメリカのかなり多くのサバイバーたちが生きている社会の状況そのものだというのがほんとひどい。